【知道中国 1291回】                       一五・九・初八

――「市店雜踏、穢臭衝鼻、覺頭痛??」(岡32)

岡千仞『觀光紀游』(岡千仞 明治二十五年)

 

1978年末に開放政策に踏み切ったことで、毛沢東中国は「解体」に向った。だが、共産党政権が、ましてや中国が「解体」したわけでもない。だから困る。本当に迷惑なのだ。自己中の塊だから。

 

鄧小平の「先富論」、江沢民の「三つの代表」と「走出去」、胡錦濤の「海洋大国建国」、習近平の「中華民族の偉大な復興」に「中国の夢」――考えてみれば、どれもこれも国際環境を考えない手前勝手な屁理屈・超妄想であり、彼らの頭の中は依然として「天朝帝国」そのもの。とはいうものの「天朝帝国」であればこそ習近平の「中華民族の偉大な復興」にしても「中国の夢」にしても、とどのつまりは「棺の中のミイラ」でしかない。遅かれ早かれ「解体」の運命にあることは間違いないだろう。

 

だが困ったことに「中華民族の偉大な復興」がたんなる寝物語に終わり、「中国の夢」が雲と霞と消え去り、共産党政権が崩壊したとしても、中国人が地上から消え去ることはなさおうだ。であればこそ身勝手放題、屁理屈満載、超自己中、郷に入れども郷に従わない膨大な数の中国人を曲がりなりにも30年ほどの間、中国大陸に閉じ込め、世界に飛び散ることを防止しておいてくれた毛沢東の“真の偉大さ”に改めて感動を覚えるのだ。

 

長い寄り道は切り上げ、この辺で本題に戻ることとする。

 

天津から北京への道中は劣悪。宿は外観も内装もボロボロ。雨の後の道路は文字通り泥濘と化す。乗った馬車にスプリングはついていないから、「高低の處を過ぎる毎に、左枝し右梧す、龜の縮頸を爲さざれば則ち鯉の點額を爲す」。加えて「風、愈々暴にして、塵土は昏霾。仰ぐに天日は見えず」というから、先ずは生きた心地はしなかったに違いない。

 

悪戦苦闘の旅の末に北京に到着し、日本公使の好意により日本政府公館に宿を取る。

 

北京到着翌日の10月15日、昼食の席で「清仏戦争はどう決着するのか判りかねます」とする公使に対し、岡は説く。

 

――このままなら中土は、インドやアフリカがイギリスやフランスの下に置かれてしまったように、フランスの「臣虜(ぞっこく)」になってしまう。「中土」の現状は20年前の我が国と同じだ。ただ我が国は小さく、また混乱も少ないが、この国は大きいがゆえに混乱もまた大規模となる。「中人」は自らの「衣冠文物(ぶんめい)」を自負するばかりで、「自治自強之道」を考えることはなかった。これは倉庫の守りを疎かにして盗賊を招き寄せ、妖艶に装うことで淫心を誘うことと同じだろう―

 

「20年前の我が国」、つまり幕末の日本は「自治自強之道」の道を突き進んだがゆえに欧米の「臣虜」になりはしなかった。だが、「中土」は徒に「衣冠文物」を誇るばかりで「自治自強之道」に思いを致すことがなく、自ら「臣虜」への道を歩んでいる。岡の見解だ。

 

翌日、公使が清朝の外務省に当たる総理衙門の4人の大臣を招いて待っていてくれた。その中の1人が公使に「?車の利害」を質問したついでに、岡にも声を掛けて来た。そこで筆談で応える。

――欧米諸国では徹底して利便・合理性を追求する。かりに害あれど利なきものならば、彼らは?車を打ち捨て利用することはないだろう――

 

岡の返答に、その大臣は黙ってしまった。そこで岡は続ける。

 

――総理衙門大臣とは「海外交際事務(がいこう)」を総べる役職であるにもかかわらず、海外の事情に全く疎い。だが我が国でも維新以前は五十歩百歩だった。ならば、とやかく咎めだてしても詮ないことだろう――

 

古今東西を問わず「自治自強之道」を求めない限り、外国の「臣虜」に堕す。《QED》