【知道中国 1288回】                     一五・九・初二                       ――「市店雜踏、穢臭衝鼻、覺頭痛??」(岡29)

岡千仞『觀光紀游』(岡千仞 明治二十五年)

 

なぜ岡は自らの考えを「迂疏」としたのか。取るに足らないものと諧謔したかったのだろう。はて「迂疏」はウソに通じないか。ところで李鴻章の考えを伝えてくれた友人に向って、岡は『荘氏』(應帝王 第七)に納められた「混沌七竅」の寓話を持ち出した。

 

遠い、遠い上古の時代、南海の支配者である?(しゅく)と北海の覇者である忽(こつ)とが宇宙のど真ん中に座す混沌帝を尋ねるや、思いがけずに大歓待を受ける。感激した?と忽が考え付いたお礼は、ノッペラボーな混沌帝に人間に歓喜をもたらす「七竅」(美しいものを見る目、妙なる音楽を聴く耳、香華を感じる鼻、絶妙な味を愉しむ口――「竅」は「あな」)を鑿ってやった。1日1竅。7日がすぎるとノッペラボーの混沌帝もやっと人間の姿(人並み)に変わったが、その時、混沌帝は虚しい屍に化していた、というのだ。

 

これが「混沌七竅」だが、「?忽(つかのま)」の命しかない人間世界に交われば、神もまた?忽のうちに命を失うことを指しているのだろう。岡は「中土、蓋し東西帝の力を借り混沌に七竅を鑿るが如し」と。「東西帝」は?と忽のこと。地上の中央に君臨してきた中華帝国であっても、弱肉強食のままに行動する西欧帝国主義列強の侵略を受けることで、混沌帝のように骸となる運命に陥った。

 

列強が「中土」に対して進めていることは、?と忽が混沌帝に「七竅」を鑿ったと同じことではないか。西欧列強の逞しき野心の赴くがままに“手籠め”にされ続けるなら、清朝は早晩滅びざるをえない――おそらく岡は、こう言いたかったに違いない。

 

岡が話し終ると、友人は「大笑」した。岡も笑ったのか。それは記されていないが、友人の「大笑」は呵呵大笑で形容される腹の底からの笑いではなかったはず。強いていうなら、苦々しい笑いといえるだろう。

ところで清末の中国について岡が引用した「混沌七竅」に近い見解を示すのが、かのマルクスである。彼は『中国革命とヨーロッパ革命』で次のように説いた。

 

「1840年に至って・・・英国の大砲は中国皇帝の権威を破壊し、天朝帝国をして地上世界と接触せしめたのである。他の世界と完全に隔絶していることが、かつて中国を保つ主要な条件であった。だが、このような隔絶情況が英国によって強引に打ち砕かれたことで、次に必然的に起こったのは解体の過程だった。それはまさしく、密封された棺の中で注意深く保存されてきたミイラが、ひとたび外気に触れると解体するのと同じだった」

 

これを岡風に読み替えれば、「英国の大砲」は?と忽であり、「天朝帝国」が混沌帝ということになるだろうか。だから「他の世界と完全に隔絶していることが」、混沌帝の権威の裏付けであった。だが、そのような「隔絶情況」は英国という?と忽の登場によって「強引に打ち砕かれ」、「次に必然的に起こったのは解体の過程」、つまり中華帝国である混沌帝の屍への道だ。かくして「密封された棺の中で注意深く保存されてきたミイラが、ひとたび外気に触れると解体するのと同じ」ように、清朝は崩壊への道を辿ることになる。

 

じつはアヘン戦争はアヘンを巡って行われたというよりは、産業革命で大量生産されることになったマンチェスターの綿製品の販路を求めての戦争だったと看做すべきだろう。

 

当時の清朝は、広州の13社の特許商社(広州十三行)を介した管理貿易を行ない、民間による対外交渉を禁じた閉鎖体制を執っていた。この閉鎖体制を打ち破り、市場の対外開放を求め、イギリスは戦争を仕掛けたわけだ。戦勝国イギリスは上海・寧波・福州・泉州・広州の中国南部沿海主要5港を対外開放されると共に、対中貿易前進基地として香港島の割譲に成功した。ここで中華帝国たる清朝の根幹を揺るがす大問題が発生する。

 

まさに中華帝国の「解体の過程」が、必然的に起ってしまったからなのだ。《QED》