【知道中国 1287回】                       一五・八・三一

――「市店雜踏、穢臭衝鼻、覺頭痛??」(岡28)

岡千仞『觀光紀游』(岡千仞 明治二十五年)

 

李鴻章が竹添の名を挙げたのは、朝鮮を巡って日清間が緊張した壬午(1882年)、甲申(1884年)の両事変に当時は弁理公使を務めていた竹添が深く関わっていたことを知っていたからだろう。

 

岡は旅行中も故服(わふく)で通した。もちろん李鴻章の前でも同じ。その姿を目にした李鴻章が些か訝しげな素振りをみせたのだろう。すかさず岡は、「我が国では官途に就きますと洋服を着しますが、『小人は處士(そうもう)』ゆえに故服(わふく)を纏います。これが古からの我が民族の振る舞いというものです」と応えた後、李鴻章に対し、「小人は古の一字を語ることを悦びません」と。すると李鴻章が「足下、已して古の一字を悦ばず。然らば則ち時務を知らんや」と切り返して来た。岡は鋭く切り込む。

 

――小人は敢えて時務を知ると申しておきましょう。目の前の、いまこの時の難局に立ち格(むか)うは聖人の道と申します。孟子によれば、孔夫子こそは眼前の難事に真っ正面から向き合う聖であると称しております。時を知らざる者とは学問を語り合えず、時事について論じ合うこともできないと、小人は私(ひそか)に考えておりました――

 

李鴻章は「黙然」としたまま。傍らのプロシャ人顧問が再三にわたって発言を促すと、「他日、北京よりお帰りの節、日時を約して再び語り合いたいが」と。すかさす岡は、「帰路は山東に廻り、曲阜廟にて孔子を拝したく。ゆえに、再びの拝眉の機を約すことは致しかねます」とピシャリ。一礼して退出している。

 

清朝の最末期に登場した教養溢れる開明派官僚のトップであり、深い学識と抜群の外交手腕で知られた李鴻章を相手に一歩も引かない姿に、岡の意真骨頂を見る思いだ。漢学者としての己の学問に対する揺るぎない自信というものだろう。こういった知の伝統は、いったい、いつ頃から消え失せてしまったのか。いや消え失せたという自覚すら明確には持ち合せてはいない。表面的な豊かさ、便利さは、安易さは、じつは人間をして我欲のままのケダモノへの道を歩ませているのかもしれない。

 

『觀光紀游』は岡による見聞記であり、李鴻章との面談に日本人の第三者は立ち会っていなようだ。であればこそ、岡が自らの都合に合わせて書き記したとも考えられないわけではない。つまり自慢話だ。だが、それにしても李鴻章との遣り取りから判断するなら、やはり岡は中国と中国人のみならず、日本と日本人をも見抜いていたようにも思える。

 

宿舎に戻った岡は直ちに机に向かい、すでに書き記しておいた道台への献策を加筆訂正している。「未だ悉くせざるところを論じ、殆ど千言」。お供の者に明朝には道台に届けることを命じた。

 

1日置いた10月12日、友人がやって来る。「李鴻章閣下はあなたの志操に深く感じ入っています」と述べた後、「但し、『中土』は数多の弊害が重なり、『皇族諸王(くにのちゅうすう)』は徒に尊大に構えているだけであり、『廟議(かくぎのぎけつ)』は確実に拒絶されます」と続けた。かくて岡は、「嗚呼、『中土』をして果して余の策を用うれば、則ち天下の事、未だ濟(たす)け難きを爲さず。顧みれば天の時未だ會さず、人事未だ至らざる也歟」と。つまり岡の献策を受け入れれば難局を打開できるはずでが、まだその時でもなさそうであり、それを託せる人も現れない、ということだろう。

 

岡の落胆が伝わって来るようだ。同席した日本の原領事から「先生は官途に就いていないご様子なので、ついては天津に留まって私のために謀ってもらいたい。これが道台のお考えですが」と、道台の意向を聞かされる。すると岡は、「なあに、道台は私の『迂疏』を悦んでいるだけです」と。「迂疏」の2文字に、韜晦した岡の思いが感じられる・・・。《QED》