【知道中国 1286回】                       一五・八・念九

――「市店雜踏、穢臭衝鼻、覺頭痛涔涔」(岡27)

岡千仞『觀光紀游』(岡千仞 明治二十五年)

 

あるいは道台は、岡から勇ましく火を噴くような激越な意見が返ってくることを期待していたのかもしれない。だが冷静に応じた岡は依然として「孤島小國」である日本の現状を示し、故なくフランスの怒りを買うことなど出来はしないと説き、「翻って『中土』を思うに、すでに戦端は開かれたが、日々に劣勢の度を加え、穴の開いたボロ船で深い淵を進んでいるようなもの。李鴻章はどのような策をお持ちだろうか」と続けた。すると道台は「『中土』は兵を養うこと200年。思いがけずも衰退して現在の惨状にいたってしまった」と。これに対し岡は、

 

――栄枯盛衰は循環しています。往古より、この原則から逃れることのできた王朝はありません。清朝盛時の康熙・乾隆帝の治世では四囲を征服し、新疆を統一し、その威を宇内に振わせたもの。200年前のことです。以来、太平の世が続き、文弱の徒が力を得る一方、武威は廃れ、弊害が社会に百出しました。であればこそ現在の惨状は当然と云えば当然のことです。我が徳川幕府も長い泰平の世に狎れ衰退の極に達したがゆえに、明治の維新中興に立ち至ったわけです――

 

ここまで聞いた道台は、「私は『科擧無用の學』に精神を消耗してしまいました。その後、電線付設事業を管轄し、『外事(こくさいじょうせい)』を深く研究せずに今に至り、国際情勢のその後も知らず、さて、今後の世界はどのように帰着するものでしょうか」と反問する。岡は応じた。

 

――今日より以前はノアの洪水以前の世界です。将来に向ってはノアの洪水以後の世界であればこそ、現に考えを巡らすには、この点を念頭に置き、禍を福に転じ、危を安に変ずるよう画策すべきです――

 

ここまで話すと、道台から「稍、悟色有り」の様子がみられる。

 

この日、岡には別の約束があった。李鴻章の幕僚で日本留学経験のある舜江の計らいで、4時から李鴻章と面談することになっていた。そこで昨夜遅くまで机に向かって書き記しておいた中国再興策を渡し、「全部、ここに書いてあるから」と。道台は早速一読し、「これは根本から論じ尽くしたもの」と大いに喜ぶ。そこで岡は「これから『小人(わたし)』は李鴻章拝謁に向うが、話が時事問題に及んだら筆談にて思う存分を述べたいと思う。そうでなかったら、挨拶だけで退出しますよ。道台閣下が『鄙人言(わたしのかんがえ)』に賛同されるなら、どうか私の考えを要人に広めて戴きたい」。すると道台は「謹んで諾(しょうち)致す」のであった。

 

道台の応諾を得て安心したのだろう。岡は、その足で李鴻章の待つ総理衙門を訪れる。舜江の出迎えを受けるが、傍らにプロシャ人がいた。なんでも李鴻章の顧問とのこと。

 

李鴻章は「左右萬巻」の書を蔵する書斎で待っていた。開口一番、竹添井井の近況を尋ねられたので、岡は「小人(わたし)、此の人とは一再(いちにど)は面(かい)すも、今、何状(どうしているのか)を知らず」と応えている。

 

竹添とは『棧雲峽雨日記』(1215回~19回)を著した竹添進一郎のこと。(天保12=1841年~大正6=1917年)のこと。熊本藩士。明治維新においては藩の参謀として働いたとか。新政府では大蔵省後、外務省へ。天津、北京などに勤務。韓国弁理公使当時、清仏戦争(1884~85年)の間に朝鮮で起きた甲申事変(1884年12月)において日本軍を指揮。その責任を取る形で公使を辞任し、以後は東大で『春秋左氏伝』など中国古典を講義。明治期の「愛国的漢学者」の代表格と内外から評価さえている。

 

どうやら竹添は、李鴻章にとっては忘れ難い日本人だったようだ。《QED》