【知道中国 1285回】                       一五・八・念七

――「市店雜踏、穢臭衝鼻、覺頭痛??」(岡26)

岡千仞『觀光紀游』(岡千仞 明治二十五年)

 

天津を歩き、岡は「道路狹隘」にして「市店雜踏、穢臭衝鼻、覺頭痛??」――道路はヤケに狭いし、店はゴチャゴチャと軒を並べ人、ヒト、人。悪臭が鼻を衝いて、目から涙は出るし、頭はガンガンする――と綴る。

 

天津港では、堆く積まれた南方から運ばれた物産に荷役人足が蟻のように群がっていた。ここから物資が北京や満州に運ばれるわけだが、ロシア人が茶箱を扱っている。碇泊している軍艦は英国のものが2隻でロシアが1隻。

 

郊外に並ぶ農家は至ってみすぼらしく、日干し煉瓦の壁に茅、麦、あるいは稗の茎で葺いた屋根。木材の乏しさを知る。川の濁った水に明礬を落とし、濁りを除いて飲用としている。明礬の毒を考え、決して冷たいままの水は飲まない。これは上海と同じだ。

 

天津到着翌日の10月7日、芝罘の道台が書き記してくれた紹介状を手に、岡は天津道台を訪問した。公務多忙とのことだったが、暫くして対坐する。道台の質問に、蘇州で訪ねた留園の盛んな様を口にすると、「園、實に僕の家園」と。そこで一気に双方の心が和む。

 

「今日お会いできたのは偶然ではない」と伝えた後、道台は「法虜(フランスやろう)は辺境を侵し、国事は日に日に急であります。『日東(にほん)』と『中土』は唇齒の間柄であり、であればこそ策はおありでしょうか。一つご教示を願いたい」と切り出した。そこで岡は、一呼吸置いて婉曲に応える。

 

――「『鄙人(わたくし)』は日本におりました当時から『中土』が外国から侮られていたことを常に憤っておりました。『有心の人』にお会いして心からこの事を論じようと考えておりましたが、何せ貧乏の身で旅費が用立てられない。何とか資金を作ることが出来ましたので、今般、初めて積年の願いを叶え帰国訪問が実現したわけであります。

 

偶然にもフランスが事を起こしましたが、秘かに考えるに、いま今日こそが百年の衰微を振起し、禍を転じと福となす絶好機でしょう。だが残念なことに依然として『高貴諸公(こっかようろ)』とお会いしておりません。一、二人の有志の士とお会い致しましたが、甲論乙駁とはいうものの、とても『家国』の運命を念頭に論じているとは思えません。ですから敢えて国家の大事を云々することを避けてきました。

 

初対面にもかかわらず、いま閣下は『鄙人』に心を開き、国事にまで話が及びました。ならば『鄙人』も考えるところを陳べないわけにはまいりません――

 

ここまで岡が話すと、道台は居ずまいを改める。そこで岡が一二の質問をすると、道台は「本日は公務があります。日を改めまして、明日、一席を設けますゆえ、ご教示願いたい」と。そこで岡は宿舎にとって返し、上海で友人に示した献策――皇帝に最も近い醇親王と恭親王に李鴻章をお供に付け西欧列強を歴訪させ、外国事情を実地見学させよ――と共に、「中人」が外国事情に疎すぎることを痛罵した文章を記した。「覺えずして夜は深し」というから、時を忘れ机に向かったはず。岡の心臓の高鳴りが聞こえて来るようだ。

 

翌日の正午に道台の衙門(やくしょ)に出向いた。山海の珍味が並び、最上級のもてなしである。やおら道台が口を開く。「法虜のなすところは文明の所業ではなく、神も人も怒るばかりだ。もし貴国が『中土』に力添えをなすなら、やつらを一撃の下に屠りさることは難事ではあるまいに」と。だが岡の返答は、得たり賢し式の悲憤慷慨型ではなかった。

 

――そういったことを、『鄙人』は20年前に『尊攘の義』を論じた折に考えておりました。とはいうものの、我が国は『孤島小國』であり、それゆえ歐米と友好関係を結んで後も劣位に甘んじざるを得ませんでした。ですから、いま確たる理由もなく『中土』に協力したなら、徒にフランスとの間に『怨みを結ぶ』ことになりかねません――《QED》