【知道中国 1283回】                       一五・八・念一

――「市店雜踏、穢臭衝鼻、覺頭痛涔涔」(岡24)

岡千仞『觀光紀游』(岡千仞 明治二十五年)

 

北京に向けて旅立つ半月前のことだが、岡は岸田吟香の経営する楽善堂を訪ね夕食を共にしている。その折、岡が「中土」の城市(まち)は狭苦しく汚いと語ると、岸田は、「『中土』では遠い昔から盗賊が跳梁跋扈し、人民の苦しみが止むことはなく、被害は尋常ではなかった。そこで古の聖王は先ず城壁を築き人民を護った。盗賊の被害に苦しむ人民は、先を争って城壁の内側の安全な場所に住むようになった。だから、どうしたって城壁の内側は人口過剰で狭苦しいのだ」と自らの考えを披歴した。

 

すると岡は、「古の歴史書の『左伝』や儒教の聖典である『毛詩』などには、街や道路は広々としていると記されているが、あなたの考えでは周の時代には既に現在と同じように街は隘陋(せまくる)しかったということか」と反問する。

 

かくて「吟香、微笑(ほほえ)みて曰く、子(あなた)も亦、六經の毒に醉える者なり。覺えずして噴飯す」と。おそらく岸田はニヤリと笑いながら、貴公も「六經の毒」にイカレてますなァ、と応えたはず。次の瞬間、2人は口の中の食べ物をプッと吹き出し、次いで呵呵大笑したことだろう。

 

中国衰退の大きな要因は文人・知識人が六経の毒に淫しているからだと力説していた岡にして、やはり中国古代の聖典の記述を疑っていない。盲信している。かりに聖典の説くところがウソ(とまでいわないまでも古代人の悲願)であったなら、孔子が理想社会として熱く語っている周の文公の時代にしても、実態は孔子が語るほどには素晴らしい治世だったとは言い難いことになる。それは、天国と見紛うほどに喧伝された毛沢東時代の社会が、じつは生き地獄としかいいようのないほどに悲惨極まるものであったことと同じだ。

 

イワシの頭も信心からとはいうものの、やはり儒教の聖典は頭から信じるのではなく、先ずは疑ってかかるべきだ。「ミイラ取りがミイラになる」の譬えではないが、「六經の毒」を糾弾する岡にしても、やはり漢学者である。儒教古典が説く美辞麗句に翻弄され、知らず覚らずのうちに「六經の毒」に侵されていたというわけだ。ところが「市店雜踏、穢臭衝鼻、覺頭痛涔涔」の現地社会で老百姓(じんみん)と斬った張ったの日々を生きる岸田には“抗体”が出来ていた。だから「六經の毒」に感染することもなかったわけだ。

 

ところで北京に向けた船旅に同道した小室だが、彼もまた「清國ニテ人物ト云フベキハ李鴻章一人ノミ」であり、「兎ニモ角ニモ當世ノ時務ヲ知ル人ニシテ目下十八省中第一級ノ人物」であり、「清人四億万人一モ恐ルヽニ足ラズ只畏ルベキハ李氏一人ナリ」と、李鴻章を高く評価する。それというのも、清国上層に在って李鴻章だけが「外國ト戰ヘバ必ズ敗ルヿヲ知」っているからである。

 

続けて「支那滿廷ノ百官擧ゲテ彼是ノ強弱ナルヲ知ラズ内外ノ國勢ニ通ズルモノ」がいない。だから戦争しようにも勝敗の予測すら立てられない。だが「内外彼我強弱ノ差ヲ知ル故ニ勝敗」を予想できるから、事前の準備・心構えができる。そこで「敵ニ臨ンデ能ク懼レ謀ヲ好ンデ能ク爲ス故ニ大敗アルヿナシ」と、小室は李鴻章評価の所以を示す。

 

小室による以上の李鴻章評価は『第一游清記』(自由燈出版局 明治十八年 19、20頁)に記されているが、岡は1882年の朝鮮の壬午事変における果断な対応は李鴻章であればこそ可能であったとして、李鴻章の才覚を大いに認め讃えている。

 

ここから当時の日本における李鴻章評価の高さが伺えそうだ。なにはともあれ船中、岡と小室の両人は李鴻章論を喧々諤々と語り合ったことだろう。

 

武昌号の同乗者は100余名。一行が利用した中級船室には地位の高い中国人客も。それというのも中国人は上級船室利用の「歐人」と船旅を共にしたくないから、である。《QED》