【知道中国 1010】     一三・十二・念一

 ――「新中国には殆ど『無駄』なるものが存在しない・・・」(宇野の1)

 「忘れ難き新中国」(宇野浩二 『世界紀行文学全集』修道社 昭和46年)

 宇野浩二(明治24=1891年~昭和36=1961年)といえば、大正から昭和前期にかけての名立たる文人と交友を持ち、一時期は文壇の大御所的存在の小説家だったかに思うが、この旅行記の冒頭の一文を読んで呆れ返ってしまった。この程度の知識しか持ち合わせていなかったのか。正直なところを包み隠さず言わせてもらうなら、とにもかくにも馬鹿莫迦しいにも程がある。バカも休み休みお願いしたいもの、である。

 そこで先ずは百聞は一見に如かず、である。「忘れ難き新中国」の冒頭を見ておこう。

 「昭和三十一年十一月七日の午前八時頃、私たちは(久保田万太郎、青野季吉、私、その他、)は、香港の飛行場についた。(香港の飛行場とは、香港ではなく、九竜の飛行場である、といふことを、後で知ったのである。さて、)私たちは、飛行場から九竜の停車場まで行くバスの窓から町を眺めながら、新中国の町としては妙にケバケバしいのを、不思議に思った。(ところが、これも、ずつと後に、この町は、新中国の内にありながら、イギリスの領分になっている事を、知つて、「なるほど、さうであったか」)と思つたのであつた」。

 旧仮名遣いには好感が持てるが、ただそれだけ。なにやらカッコが多く読みにくい文章は我慢できるとしても、その内容にブッ魂消た。バスから見た九龍が「新中国の町としては妙にケバケバしいのを、不思議に思った」などとトンチンカンな印象を綴る始末。ということは、宇野は香港がイギリスの植民地であったことを知らなかったということになる。中国語で「宇野先生、別糊塗(真顔ですか)」と、半畳を入れたくもなろうというもの。

 さらに追い打ちをかけるように、「ずつと後に、この町は、新中国の内にありながら、イギリスの領分になってゐる事を、知つて、『なるほど、さうであったか』」と、一層の無知蒙昧ぶりを曝け出す。なにが「なるほど、さうであったか」である。こういうのを、開いた口が塞がらないというのだろう。

 当時は、九龍の先端に位置する尖沙咀のさらに突先にあった九龍駅から汽車に乗り、旺角、大囲、沙田、馬料水、大埔墟、大埔、上水の各駅を経て羅湖に至り、ここで下車して香港と広東省の間を流れる深圳河に架かる橋を荷物を持って渡り、中国側の厳重な入国審査を経たうえで深圳駅にて広州行きの列車に乗り込んだ。因みに九龍駅は解体され、現在は跡形もない。駅舎の象徴だった赤レンガの時計台だけが尖沙咀のランドマークとして残り、往時を偲ばせてくれる。

 そういえば70年秋から5年ほどの留学時の大部分を過ごした下宿と在籍していた新亜書院新亜研究所への通学は、下宿から出て線路をとぼとぼと5,6分歩いて沙田駅へ。もちろん、改札など通るわけがない。月台(プラットホーム)の高さは40㎝ほどもなかったから、線路から、そのまま月台へ。列車が来たら乗り込むだけ。当然ながら検札など来るわけがない。やがて終点の九龍駅。ここでも改札は通らない。列車の後部から線路に降り、操車場の中を歩いて構外へ。誰も咎めることもない。なにせ、こうした無賃乗車の鉄道利用客は老若男女数多し。操車場の職員も見て見ぬ振りではなく、全く気にしていなかった。

 それでも時に、座席指定の軟車(グリーン車)に乗ることがあった。当然、窓口で切符を買うわけだ。駅員はソロバンを脇に置き、1枚売れるたびにソロバンの珠を1つ撥ねる。定員の枚数を売り切る、つまり珠が所定の数を記録すると、バタンと窓口が閉められ売り切れ、である。前売り制度もコンピューター予約もない、じつに長閑な時代だった。

 香港製はニセモノ、香港情報はインチキの代名詞。思い起こせば大陸では文革が猛威を振るっていたが、香港全体は“英国植民地”という境涯にドップリと浸っていたような。

 おっと脇道に逸れた。やはり本題に戻り、「忘れ難き新中国」を先に進もう。《QED》