【知道中国 1282回】                       一五・八・仲九

――「市店雜踏、穢臭衝鼻、覺頭痛??」(岡23)

岡千仞『觀光紀游』(岡千仞 明治二十五年)

 

国家の枢要が自己中心に過ぎるだけでなく国際社会の動きに目を閉じてしまい、自国を万邦無比の大国と故なく思い込んでいる。盲信とは夜郎自大の別の表現。この点にこそ「中土」が衰退する要因がある。だからこそ李鴻章は光緒帝に強い影響力を持つであろう醇親王と恭親王の2人を奉じて外国を歩くべきだ、と説く。

 

――「域外(しょこく)」を歴訪し、国々の強盛は科学で実学を体得し、工業を拓き、政治を改め、教育を盛んにした結果であることを実体験してみる。文明による統治、法治に基づく政治、完備した社会、素晴らしい人材などは「中土」では得られないとなれば、奮然として決起し、文武百官を統率し、全官僚を督励し、禍を転じて福となし、危を翻して安となせば、果たしてどうなるか。

 

「中土」が諸国との友誼を重んじ、国難を克服し、国家の根本政策の意思決定に透明度を増し、特に親王大臣を海外に派遣して虚心坦懐に同盟各国に諮詢するなら、欧米各国は歓迎するはずだ。「中土」の要請に各国が同意・同調できなかったとしても、その信義と誠意を認めるなら、「中土」ために善後策を考えだすだろう。いまや千年に一度しかない絶好機だ。同時に200年の歴史を持つ清朝帝室と全人民の安泰のために決然と大計を定め、大難を克服できるのは李鴻章のみだ――

 

この岡の主張に対し、友人の1人は暫しの沈黙の後、「この事のために夜も眠れず、食事もノドを通らず、苦悶呻吟し茫然自失の状態でした。いま先生のお話を伺い、国難といえども打開の余地があることを知りました」と感激の面持ちだ。すると岡は、「我が献策を受け入れてくれるなら、私が筆記した内容を上海の行政責任者である邵道台に示し、実現のための方策を考えてもらいたい」と問い掛ける。すると相手は「謹んで承知致しました」と。

 

かくて岡は、「長いこと考えていたが、いままで我が献策の全体像を他人に打ち明けることはなかった。いま、あなたは我が真意を諒とされた。『中土』は元より『有心の人』が乏しいわけではない」と伝えた後、「酒飯。更深歸寓」と続ける。欣快至極。さぞや箸が進み、杯を重ねたに違いない。岡の喜びが行間に躍っているようだ。

 

以上を敷衍するなら、国家の指導者が外国の情況を考慮せず、自国の都合や利害を一方的に強硬に主張し、「中土」だけが「禮樂文物の大邦」だと思い込むだけでなく、指導者に信義と誠意が感じられない点に「中土の大病」の原因があるということだろう。岡の指摘は、そのまま現在の中国にも通じるように思える。

 

自国の都合を論拠に他国の領海やら公海に勝手に線を引きながら胸を張って傲然と「核心的利益」だなどと口にする。公海上のサンゴ礁に航空基地を建設し、「中華民族の偉大な復興」を掲げるなどの盗人猛々しい蛮行は「中土の大病」に起因するのだ。やはり岡が指摘した「中土の大病」は、現在に至っても一向に改まってはいない。

 

9月26日、5日前の21日に岡の考えを「謹んで承知致しました」と語った友が訪ねてきた。北京に旅発つ岡を見送るためだが、そこで「慙愧に耐えないことですが、『中土』では人材は底を尽き、『此の大策を行う者無し』」と語った。岡が考え出した“清朝再生への妙案”は幻の儘に終わるのか。かくて岡は我が??(しつい)の半生の末にあなた方という人を知り「海外の知己と爲す。以て少しく自らを慰める可し」という一文を草し、自らを慰めるしかなかった。

 

明けて9月27日、『第一遊清記』を著した小室信介などと共に武昌号に乗り込んだ。上海を発った一行は、山東省の烟台、次いで天津を経て北京に向かう。《QED》