【知道中国 1011】     一三・十二・念三

 ――「新中国には殆ど『無駄』なるものが存在しない・・・」(宇野の2)

 「忘れ難き新中国」(宇野浩二 『世界紀行文学全集』修道社 昭和46年)

 「ここで、もう一度いふと、おなじ新中国の内でありながら、羅湖はイギリスの領分(或る本には、『イギリスの領分』としないで、『香港国』とある、)であり、深圳は新中国(中華人民共和国)にある、という事になつてゐる」とする。どうやら宇野の頭の中では、香港側の羅湖は飽くまでも「新中国の内であ」らねばならないらしい。

 どんな本を宇野が目にしたのかは不明だが、当時の香港はレッキとした英国植民地であり、断じて「国」などではない。残念ながら、これが当時の日本の周辺諸国・地域に対する認識の程度ということになるわけだが、それを真に受ける宇野は実に困ったゴ仁だ。

 羅湖の移民局の前に立ち宇野は、「イギリスの旗をつけた竿が立つてゐるのも目についた。それが目につくと直ぐ、向こうの方に、中華人民共和国の旗をつけた竿が立つてゐるのが目に止まつた。/この光景は、私には、妙に異様に見えた」と記す。

 だが「イギリスの領分」である羅湖にイギリス国旗が、「新中国の内」に位置する深圳に中華人民共和国の国旗である五星紅旗が立っていて、いったい、なぜ「異様に見えた」のか。「異様に見えた」宇野の方が、やけに「異様に見え」てしまう。

 やがて入境手続きも完了し、「剣つき鉄砲を持った新中国の兵隊」が立つ所を「通り過ぎると、鉄橋らしい橋の袂に、新中国の番兵が立つてゐた」。さらに進むと、またまた「新中国の番兵が、立つてゐた」。こういった情況に「決してよい気持ちがしなかつた、いや、遠慮なく云ふと、大へん否あな感じがした」そうだ。どうやら新中国が共産党一党独裁の閉鎖国家であるということが、宇野には全く判っていないらしい。

 たとえば文学者に対しては、「(宇野が訪ね懇談した)どこの町の文学者たちも、結局は、共産主義のキデオロギイにかなふものを書く、と云ひはつた。私は、この事を思ひ出す毎に、政治家とかその道の人たちは別として、これらの人びとは『芸術家』ではないか。芸術家ならば、百人の中の一人か二人ぐらゐは、あるひは、千人の内の三人か四人ほどは、『共産主義』といふものに対して、不審か、疑惑か、あるひは、反対か、の考えをもつべきではないか、と、しばしば、考へた。しかし、新中国では、そのやうな事は、殆んど絶対になささうであり、いや、絶対にないらしい」とし、「かういう点では、日本の文学者と新中国の文学者の考へは、まず、当分は、あるひは、半永久的に、並行するにちがひない」と、なにやら“達観”しきったかのような感想を綴っている。

 だが、文芸は政治・革命に、労働者・農民・兵士に断固として奉仕すべしという毛沢東の文芸政策に従うなら、「百人の中の一人か二人ぐらゐ」であれ、「千人の内の三人か四人ほど」であれ、当時の中国で「『共産主義』といふものに対して、不審か、疑惑か、あるひは、反対か、の考えをもつべきではないか」などといった寝言が許されないことは、当の「どこの町の文学者たちも」十二分に弁えていたはずだ。

 じつは宇野が訪中する2年前の1954年6月に公表した「文芸問題に関する意見書」のなかで文芸評論家の胡風(1902年~85年)は、共産党の文芸に対する無理解と派閥的運営を批判した。毛沢東はこれを反革命と断定し、55年5月に逮捕を指示。かくて共産党は、中国全土で胡風反革命集団の摘発を進める一方、胡風批判の大運動を展開する。2000人以上が厳正な調査を受け、92人が逮捕され、70人前後が労働改造などの名目で牢獄送り。胡風は55年から10年間の牢獄生活を強いられた後、出獄するや65年には直ちに再入獄。結局毛沢東の死から3年が過ぎた79年に出獄。監獄生活は前後2回、総計で4半世紀に及んだ。

 「『共産主義』といふものに対して、不審か、疑惑か、あるひは、反対か、の考え」を持った胡風のことに全く考え及ばないというのだから、宇野の鈍感力も相当なものだ。《QED》