【知道中国 1012】 一三・十二・念五
――「新中国には殆ど『無駄』なるものが存在しない・・・」(宇野の3)
「忘れ難き新中国」(宇野浩二 『世界紀行文学全集』修道社 昭和46年)
宇野が中国に滞在した昭和31(1956)年11月から半年ほど遡った1956年4月、毛沢東は「十大関係を論ず」と題する講話を発表したが、その中で胡風問題に言及し、胡風の如き「反革命是廃物、是害虫、可是抓到手以後、卻可以譲他們給人民辦点事情(反革命はゴミであり、害虫だが、捕まえたら人民のために働かせるがいい)」と口を極めて罵る一方、悪名高い「百花斉放 百家争鳴」の方針を打ち出している。
この方針を、党中央宣伝部長として当時の党におけるイデオロギー・教育部門の責任者であった陸定一は、「文学、芸術、科学研究には思考の自由があるべきだし、言論・創作・批判の自由があり、自己の考えを持つ自由がある」などとの見解を示していたが、胡風問題で動揺する知識人への対策といっていいだろう。だが、「百花斉放 百家争鳴」の大方針がインチキ極まりないものであり、毛沢東政権下での大悲劇の始まりであり、後の文革にも通ずる反右派闘争の伏線となったことは、程なく明らかとなる。
だが鈍感力旺盛な宇野が、政治的機微に考えを及ばすわけがない。接待担当者から言われるがままに、飽くまでも正々堂々と、脇目も振らずにノー天気ぶりを発揮し続けた。
「新中国では、国家が、作家の創作を援護する、つまり、たしか、作品が出来あがるまで作家の生活を保証する、それから、或る作家の一冊の本になった作品が、作家協会に、あるひは、有力な批評家に、大いに認められるか推奨されるかされると、又、或る本が『ベストセラア』になどになると、その作家は半生(あるひは二十年ぐらゐ)生活が保障される」。
どうやら宇野は「新中国では、国家が、作家の創作を援護する」と聞かされ、それを信じ込んで記したようだ。素直といえば素直というべきだろうが、疑うことを知らないから、中国側としても相当に扱い易かったに違いない。
もはや言うまでもないことだろうが、「新中国では、国家が、作家の創作を援護する」のではなく、党の指導に素直に応じ、党の方針に沿った作品を創作すれば「作家の生活を保証する」仕組みになっていた。現在でも基本方針に変わりはないはずだ。
宇野は北京大学を訪れ、「北京大学であつたか、(その他の大学もそうであつたか、)入学生は、授業料、食費、衣料品、その他、一切を、国家が負担してくれる」と、説明された内容のままに記しているようだ。だが実態は、「一切を」国家に負担してもらう代わりに、「入学生は」自らの一切を、党の指導に委ねなければならなかったはずだ。
さらに宇野は、「国家が負担する、と云へば、町をあるくと、方方の商店などの看板に、『公私合営』とかいう文句があるのが到る処に目につくが、これは、それらの商店などが、国家に資本を半分出してもらつてゐる、と意味であるらしい」と、またまたトンチンカンである。これも相手の言うことを真に受けて書いたのだろう。
「公私合営」とは1956年1月に全国規模で始まった産業界における社会主義化の動きだ。建国から6年有余、共産党政権は全国規模で社会主義を急ぐ。多くの農家を集団化し合作社として農村の社会主義化を進める一方、都市においては規模の大小や業種にかかわらず私企業を廃止し、公私合営という形態の企業に改造していった。企業管理権を取り上げる代わりに、資本家が持つ企業の財産の多寡に応じて一定の利子(「定息」と呼ぶ)を支払い、資本家には経営管理者としての仕事を宛がうというものだ。
資本家が自分で築きあげた企業・工場を、商店主は自らの生きる糧である店舗を泣く泣く差し出さざるをえなかった。「それらの商店などが、国家に資本を半分出してもらつてゐる」のではなく、資産を強制供出させられたのが実態だ。嗚呼、呆れ果てた鈍感力。《QED》