【知道中国 1014】 一三・十二・念九
――「新中国には殆ど『無駄』なるものが存在しない・・・」(宇野の5)
「忘れ難き新中国」(宇野浩二 『世界紀行文学全集』修道社 昭和46年)
「新中国に行つて、まづ驚いたのは、何も彼もが、ゆつたりしてゐて、途方もなく大きい事であつた」と綴った宇野は、次いで「北京に行つてから、よかれあしかれ、いろいろな事に感心したが、それらのなかの一つは、中国では、見た所だけで云へば、伝統を大へん大切にしてゐる事である。私は、それを、北京だけではない、こんど廻つた所だけでも、到る処で、見聞きして、これは大へんな事だと思つた」そうだ。
さらに「古い建造物や彫刻や絵画やその他を、実に大切にあつかひ、それらの物を丁寧に保護し、それらの物を根気よく復旧し、(それらの物は、日本ではたうてい想像できないほど、巨大である)それに莫大な金をかけてゐる事」に感心した後、「かういうふ事について、中国の為政者は、これらの立派な物を造つた人たちが、たとひ暴君であつたとしても我が儘な貴族であつたとしても、それらの物を実際に造りあげたのは工人(つまり、労働者)である、つまり、これらの工人の造つた芸術はもとより工人のものであるから、現代の人びとはそれらの物を尊重しなければならない、と考えてゐると、云うはれてゐる」と、招待者側の説明のままに、何らの疑いを差し挟むことなく記すとは、鈍感極まる文学者だ。
また「新中国の都会の町には、到る処に」、「肖像のほかに、毛沢東の胸像や全身像の彫刻をおいてある所もある」。だが「毛沢東ばかりではない、或る所には、マルクス、ㇾエニン、スタアリン、毛沢東、周恩来、その他の、半身の肖像画が、ずらりとならべて、掛けてある」。こういった全体主義国家特有の現象について宇野は、「これは、新中国が先駆者として崇拝してゐる、孫文がㇾエニンの革命に啓発されたのであり、毛沢東もスタアリンの政治の方法に学んだのであるから、当然の事であらうか」などと、トンチンカン全開!!
ここで、歴史的事実を振り返っておくことが必要だと思う。
宇野が訪中したのは昭和31年11月。この(1956)年の2月に開催された第20回ソ連共産党大会でフルシチョフはスターリン(1879年~1953年)に対する全面批判を秘密裏に行った。同年4月5日、共産党機関紙の「人民日報」は同紙編集部名で「プロレタリアート独裁の歴史的経験について」と題する論文を掲載し、個人崇拝を含むスターリンの「重大な誤り」を認め、個人崇拝に反対することは思想的障害物を取り除くための偉大な闘争であると第20ソ連共産党大会の意義を認めたうえで、スターリンに対して「七三開」、つまり功績は7割で誤りは3割だとした。いわば全面否定は誤りだ、ということである。
この時、中国共産党が示したスターリンに対する「七三開」という評価が、遂には69年の激しい国境紛争にまで発展した中ソ論争を引き起こすことになるわけだが、宇野は、「それから、北京の町を散歩して、私のやうな者にも気がついたのは、新中国がソヴィエトと、兄弟のやうに交わってゐるらしい、という事である、いや、まつたく同盟国のやうに見える、という事があるという事である」と記す。だが中ソ両国は1950年3月には「日本および日本と結託する国」を仮想敵国とした中ソ友好同盟援助条約を調印しているわけだから、考えてみれば公式的には「新中国がソヴィエトと、兄弟のやうに交わってゐる」ことは当然であり、すでに中ソ両国は立派な「同盟国」だったはずだ。であればこそ、「私のやうな者」が気づいたことそれ自体が、自らの政治無知を満天下に曝していることと同じだろう。
まさか文学者の宇野に、4月5日の「人民日報」から“中ソ対立の芽”を読み取れなどと政治的・思想的要求をする心算はないが、彼のような立場に在る人物のトンチンカンぶりが、結局は日本の新中国に対する見方を歪めてしまったことだけは指摘しておきたい。
最後に「一口で云ふと、『新中国は計り知れざる国である』といふ事」と。いわずもがなだ。「忘れ難き新中国」なる新中国紀行は、「私のやうな者」の戯言に満ち溢れていた。《QED》