【知道中国 1239回】                       一五・五・十

――「糞穢壘々トシテ大道ニ狼藉タリ」(小室16)

『第一遊清記』(小室信介 明治十八年 自由燈出版局)

 

夕方になると、難民キャンプは閉鎖される。そこでキャンプから出て、近くのアランヤプラテートの街に戻る。

 

かつてバンコクを発って東に向かって進んだ列車は、アランヤプラテートで国境の川に架かる鉄橋を越えてカンボジア最初の街であるポイペトへ。その後、鉄路はバッタンバンなどカンボジア中西部を経てプノンペンに至り、さらにヴェトナム南部のホーチミン(旧サイゴン)に通じていた。

 

70年代末、ヴェトナム軍の追撃を逃れながらタイ国境に近いカルダモン山塊に逃げ込んだポル・ポト派は抵抗拠点を構築し、一帯で採れるルビーと木材をポイペトで売り捌きながら延命を図った。つまり当時のアランヤプラテートは、ポル・ポト派の最重要戦略拠点であるポイペトに対峙する国境の街だったわけだ。であればこそ、この街には難民相手の俄か商人やら内外の戦争ジャーナリストが犇めき、僅かしかなかったホテルは、どこも満室だった。居並ぶ商店の多くは、米・調味料・砂糖などを一包みにした難民向けの商品を積み上げた問屋に商売替えしていた。もちろん、それら難民向け商品はバンコクの華人商人の手で調達され、アランヤプラテートにピストン輸送されたのである。

 

老朽ホテルだが、贅沢はいえない。とはいえ、とにかく蒸し暑い。エアコンはなく、開け放った窓から吹き込んで来る僅かな生暖かい風と天井の大型扇風機のみが頼りだ。窓の外は漆黒の闇。暫くすると国境の向こう側から腹に響くような大砲の音。すると天井の薄明かりがスーッと消え、扇風機が音もなく止まる。蒸し暑さが部屋の中に充満し、眠れない。たしかに、ここは戦場だった。いや正確には、戦場に接しているという形容すべきか。

 

翌朝、ホテルで作ってもらったバナナの皮で包んだチャーハンを持って難民キャンプに向かう。国境に沿って北上する国道を難民相手の品物を持った商売人たちと先になり後になり進むと、進行方向右手のカンボジア側に鬱蒼と茂る熱帯疎林から難民が続々と現れ、カオイダン難民収容所を目指す。カンボジアの方向からは、時折、銃声も聞こえる。やはり、そこは戦場だった。

 

やがてタイ国軍司令部許可のカオイダン難民キャンプ通行証の期限が切れる。ホテルを引きあげ、バンコクに向って西に進むと、国境に向かってフルスピードで進むタイ国軍ジープに出くわす。昼というのにライトを点灯させ、その後ろには砂塵を挙げ道路を揺るがせて進む戦車が続く。もちろん、こちらは車を路肩に寄せる。戦車、装甲車、完全武装の兵士を満載した軍用トラック、そして殿はジープ。

 

バンコクへの帰路の途中で、国境から相当に離れた場所に設置されたポル・ポト派専用の難民キャンプを覗く機会をえた。背は低いが、がっちりとした体つき、衣服からはみ出した肌は黒光り。鋭い眼光、潰れた片目、失われた手足――明らかにカオイダンの難民とは違う。国連職員の話では、彼らは休養を取り体力を回復させた後、難民キャンプを抜け出し、再び戦場に向かうとのことだった。

 

その時から4半世紀ほどが過ぎた2005年前後の8月、ちょっとしたセンチメンタル・ジャーニーに出掛けた。アランヤプラテートにかつての面影はなく、軒を並べる巨大な市場に商品は溢れ、広大な広場を埋めるようにバンコクからの観光バスが列をなしていた。

 

その日はタイ王妃誕生日。王妃の長寿を祝い、その日一日だけ国境関門が開放され、ポイペトへの往来は自由だった。人々の流れに沿って国境を越える。かつてポル・ポト派の拠点だった街に居並ぶカジノに、人々は吸い込まれて行く。数軒のカジノを覗くと、入り口に麗々しく掲げられた営業許可証には、例外なく漢字の名前が記されていた。《QED》