【知道中国 1015】       一三・十二・三一

 ――「中国政府はなぜこれほど金持なのだろう?」(本多の1)

 「重慶の印象」(本多秋五 『世界紀行文学全集』修道社 昭和46年)

 日本共産党系文芸評論家の本多秋五(明治41=1908年~平成13=2001年)が中国訪問日本文学代表団の一員として訪中したのは、昭和32(1957)年10月だった。当時、毛沢東は、後の中国社会全般に大きな禍根を残し、文化大革命にも繋がった大衆動員型政治闘争である反右派闘争を強引に、強硬に、無謀にも徹底して推し進めていた。

 ソ連における一連のスターリン批判に刺激され、中国共産党は56年に「百花斉放・百家争鳴」なるスローガンを掲げ、文芸・芸術・学術などの文化面においては異なった様式や学説の自由な発表を許可するという画期的な自由化政策を打ち出した。すると、共産党と共に新中国を建国したと自負する民主諸党派の指導層、知識人、それに学生が中心となって共産党を容赦なく批判し始める。一党独裁なんて建国時に約束しなかった。急激な社会主義化・集団化は新中国が理想として掲げた民主に反する――というわけだ。

 その批判の鋭さと社会的広がりに困惑する共産党だったが、毛沢東は大反撃に転ずる。「オレに刃向い、共産党に敵対し、指導権を奪おうなどとは、百年も早いワッ。こういう不届き千万なヤツラを右派分子として徹底して焙り出し、捻り潰してしまえ」とばかりに反右派闘争を全国展開した。各職場・職域に厳命し一定の割合で右派分子を強制摘発させ、悪逆非道の反革命・反社会的存在と断罪し社会から抹殺したのである。かくして毛沢東を信じて“自由な意見”を口にした民主諸党派指導者、知識人、学生などは社会の不純分子と断罪され、ヒトとして生きる道を絶たれた。「百花斉放・百家争鳴」は共産党を批判する勢力を誘き出し政治的に葬り去り、確固たる独裁を狙った陰謀だと非難されるや、毛沢東は「陰謀ではない。陽謀だ」と傲然と嘯いた、とも伝えられている。

 かくして共産党首脳陣から民主諸党派関係者、知識人や学生にまで、毛沢東に楯突いたら社会的に抹殺されるという恐怖心が植えつけられ、中国社会全体が委縮し、「偉大的毛主席」に洗脳されるが儘の超巨大カルト国家への道を歩むことになったわけだ。

 共産党内での絶対的権威確立への道を驀進する一方、反右派闘争で自信を深めた毛沢東は、本多訪中翌月の57年11月、10月革命40周年祝賀祝典参加のためにモスクワを訪問するが、そこで会談したフルシチョフの「ソ連は15年でアメリカを追い越す」との発言に刺激され、「ならば我が国は鉄鋼などの主要工業生産高でイギリスを追い越す」とぶち上げた。小賢しいフルシチョフ、なにするものぞ――毛沢東の燃える心意気といえないこともないが、所詮は2人の独裁者の間で繰り広げられた売り言葉に買い言葉という茶番劇。

 帰国後の58年、毛沢東は悪名高い大躍進政策をぶち上げる。「超英趕美」とのスローガンの下、当時世界第2位の経済規模を持つ英国を15年以内に追い越し、アメリカに追いついてみせると大見得を切った。とどのつまり当時の中国の国力や民度を無視した無謀極まりない急進的社会主義化政策によって、以後の3年ほどで4500万人ともいわれる餓死者を生んでしまった。この大失策の後遺症への対応、毛沢東と側近の間の政策的齟齬と疑心暗鬼、さらには側近間の忠誠心競争が後の文革に繋がっていったのである。

 以上要するに、本多は極めて微妙な時期に訪中していたということだ。であればこそ、彼が果たして五感を鋭敏に働かせ、手と足と耳と目と頭を縦横に駆使し、どのように中国の現実を捉えたのか。文芸評論家としての本多の“力量”を問い糺してみたいと思う。

 かくて本多の「大づかみにいうと、北京一日、上海八日、重慶成都で七日、という旅」が始まるが、早くも英国植民地の香港税関で、本多は「イギリスの官憲であるところの、若い中国人の女性」を目にし、「つい目と鼻のお隣に」に在る「外国の支配者を追い出した中国」と対比しつつ、お節介にも、彼女らの胸中を“左翼的”に推し量ろうとする。《QED》