【知道中国 1016】    一四・一・初一

 ――「中国政府はなぜこれほど金持なのだろう?」(本多の2)

 「重慶の印象」(本多秋五 『世界紀行文学全集』修道社 昭和46年)

 「中国へ行ったにしても、こちらにろくな予備知識があるわけではないし、まあ博物館の目録でも貰って来るよ、などといって出かけた」本多は、経由地の香港で、若い女性税関吏を「イギリスの官憲であるところの、若い中国人の女性」と呼んだうえで、「つい目と鼻のお隣には、外国人の支配者を追い出した中国があるのだが、彼女等は英国の使用人としての自分たちの地位をなんと考えているのだろう? と考えるとおもしろい」と疑問を呈した後、「英国の使用人としての生活は、彼女等の生活の全部ではないかも知れぬという気もする。それならばそれで、それがまた面白い」と、愚にもつかない考えを記す。

 本多にしてみれば、「つい目と鼻のお隣には、外国人の支配者を追い出した中国がある」ではないか。キミたちも「英国の使用人」なんぞに甘んずることなく、民族解放闘争に励み、トットと香港から英国人という「外国人の支配者を追い出」しなさい、とでもいいたいのだろうが、それこそ要らぬお節介というものだ。

 当時の香港には、「英国の使用人としての自分たちの地位」を十二分に利用し、王侯貴族のように贅を尽くした生活を謳歌している「大君」と呼ばれた資産家たちもいたはずだ。国民党のデタラメ政治に愛想尽かしした人々もいただろうし、もちろん共産党や国民党の工作員も少なくなかっただろう。だが、その大多数は共産党の恐怖政治から脱し、命からがら香港に流れ着いた人々だったに違いない。

 彼らは、植民地とはいうものの、共産党の理不尽な政治の及ばない香港での日々に安堵していたはずだ。古来中国では、苛政は虎よりも猛し、というではないか。悪逆非道な政治は、飢えて凶暴な虎の害より甚だしいものである。たとえ植民地での生活が苦しかろうとも、香港では毛沢東に率いられた共産党による無慈悲極まりない暴政よりは幾層倍も人間らしい生活を送ることができる。たとえ貧しい生活であろうとも、なによりも香港には「外国人の支配者を追い出した中国」では絶対に味わうことのできなかった自由があった。

 ここで香港留学時の思い出を・・・。

 戴さんは、1970年秋から1年ほど世話になった下宿の大家さんである。当時は30歳代後半だったように思うが、数学者を志していた学生時代に共産党のデタラメさに気づき、日ごろから毛沢東を批判していた。反右派闘争がはじまると、当然のように周囲からは「頑迷な右派」「反毛沢東主義者」と熾烈な攻撃を浴びることになる。そこで身の危険を感じた戴さんは中国での一切を捨て、已む無く香港に逃げ込んだとのことだった。時折訪ねてきた友人も、戴さんと同じような経緯で香港へ。戴さんたちから聞かされる中国の実情は、日本で学んだ“理想の国造りに邁進する中国”とは余りにもかけ離れたものだった。

 本多が訪中した翌年(1958)、毛沢東が強行した大躍進政策によって中国大陸は飢餓地獄と化してしまった。当時、多くの難民が着の身着のままで広東省から香港に逃れてきた。これを「大難潮」と呼んだが、戴さんらは連日、広東と香港の境界まで出向き、なけなしの金で買い集めた衣類や食料を難民に手渡したという。

 私が下宿していた当時、目だけが異様に鋭い貧しい身なりの若者が戴さんを訪ねて来て数日過ごすことが時折あった。毛沢東に嫌気がさし、文革に疲れ果て、武闘と呼ばれる武器を執っての派閥間の殺し合いに敗れ去り香港に逃れてきた元紅衛兵だった。私の下宿した戴さんの家がそうであったように、香港もまた共産党の政治から逃れる人々にとっての暫しのシェルターだったともいえるのだ。

 確かに本多には「ろくな予備知識があるわけではない」。「外国人の支配者を追い出した中国」への入国前から、寝惚けたゴ高説を垂れるとは、やはり稀代のノー天気だ。《QED》