【知道中国 1017】 一四・一・初三
――「中国政府はなぜこれほど金持なのだろう?」(本多の3)
「重慶の印象」(本多秋五 『世界紀行文学全集』修道社 昭和46年)
当時の訪中ルートに従って、香港側終点である羅湖駅に向かうべく本多もまた始発の九龍駅で広九鉄道に乗車する。すると「九竜の停車場で、シナ服をきた小柄なおばさん」を見かけた。どうやら当時は、本多のような左翼思想の持ち主でも中国服とは言わず「シナ服」と。ということは、正々堂々と「シナ」を口にしていたことになる。
「シナ服をきた小柄なおばさん」の「腰から下の線は、中国のおんな以外には見られない線だ。画家や彫刻家ならば、あの線の特徴をつかむことが出来るかも知れない、自分には言葉であれがいい現わせない、しかし、いい線だなあ、と思うと面白い」などと、またまた愚にもつかない感想を漏らす。
九龍を出発した汽車は九龍の市街地を進み、やがて獅子山隧道を抜けて新界の農村地帯を走る。「プラットフォームには、どこの駅にも屋根がない。中国本土に入ってもそうである。なるほど、雨の少ない国では屋根はなくても濡れないわけか」と、またぞろ愚にもつかない。いったい何処で、香港が「雨の少ない国」などという情報を仕入れたのだろうか。
「シナ服をきた小柄なおばさん」の「腰から下の線は」は「いい線だなあ」などと綴る一方で、香港を「雨の少ない国」などとしたり顔である。まったくノー天気も極まれり、としかいいようはない。
1957年10月末に本多は中国入りしているが、その直前の1957年10月15日、中共中央は「右派分子を区分する基準についての通知」を発し、社会主義制度・プロレタリア独裁・共産党指導に反対する者――要するに、毛沢東と共産党に不服な者を強引に右派分子として仕立てあげ、徹底追及すべしと全国に厳命を下した。反右派闘争の全面開始である。
当時の香港のメディア情況から判断して、反右派闘争の情報は確実に香港にも伝わっていたであろうし、それゆえに国民党を含む共産党に反対する考えを持つメディアは、例外なく中国大陸での政治闘争の動静を能う限り詳細に伝えていたに違いない。にもかかわらず、自らの政治的立場のゆえか、香港発の中国情報を「香港情報」として一括りにインチキ情報、タメにする偽情報と見做しがちであった当時の雰囲気のままに退けたがゆえか。ともかくも本多は、共産党政権下で進行していた複雑極まりない政治情況に言及することを避けている。その代わりが、「腰から下の線」であり「雨の少ない国」への言及である。なにやら本多は中国に足を踏み入れる以前に、すでに思想的愚鈍さ、あるいは思想的感度のニブさを露呈してしまったらしい。おそらく、これが文芸評論家としての本多のウソ偽りのない実像であり限界ということになるのだろう。
それにしても、本多のみならず米川正夫、柳田謙十郎、桑原武夫、南原繁、宇野浩二など、昭和30(1955)年前後の数年間に中国側から招待され、ノコノコと出掛け帰国してはゴ高説を垂れた高名な学者・文化人・知識人たちの中国紀行を追体験して気づかされるのは、現実を見据え、自らの脳髄で考えることを放棄してしまったその無残な姿でしかない。中国側招待者のタメにする解説のままに疑いを差し挟むこともなく書き連ねられた文章こそ、敢えて精神の瓦礫と呼ぶに相応しいものだ。彼らによって恥ずかしげもなく積みあげられていった精神の瓦礫が共産党政権成立後の日本における中国観を歪めることに少なからざる影響を与えてしまったであろうことは、敢えて指摘するまでもないはずだ。
この旅で本多は北京、上海、杭州、蘇州、それに重慶を訪ねているが、「こんどの旅行中、重慶がもっとも印象的であった」と記す。その理由を、「こちらの眼のピントが、重慶へたどりつくまでに次第に調節されてきたという事情があったかも知れない」とする。だが、「次第に調節されてきた」どころか、逆に「こちらの眼のピント」は狂うがままだった。《QED》