【知道中国 1221回】                       一五・三・念九

――「最モ困却セシ者ハ便所ニテアリシ」(曾根2-2)

曾根俊虎『清國漫遊誌』(績文舎 明治十六年)

アヘン戦争に敗北し大英帝国から南京条約締結を逼られた1842年以後に辿った道を振り返るなら、清国は西欧列強の軍事力を前にして屈辱的な条約を次々に受け入れざるをえなかった。いわば半植民地・半封建への道をまっしぐらであり、その先には亡国の2文字がチラついていた。であればこそ、当時の清国を「現今亜州」で「獨立國ト呼ハル」ことなどできはしないはず。ましてや日清両国が「同文同種唇齒ノ國」の関係を持つ「兄弟」であろうわけがない。21世紀の初頭の現在に至っても、いや未来永劫にわたって、両国は「同文同種唇齒ノ國」ではない。これだけは断言できる。

 

曾根の旅とはやや逸れるが近現代の歴史を思い起こすと、日本人は中国人から3度にわたって“言葉の魔法”を掛けられ、金縛りに遇ってしまったと思う。最初が「同文同種唇齒ノ國」であり、次が日本敗戦時の蔣介石による「怨みに報いるに徳を持ってす」であり、3度目が毛沢東の「日本人民も中国人民も同じく日本軍国主義者の被害者だ」である。

 

どだい国家と国家が「同文同種唇齒ノ國」の関係にあるわけはなく、時と場合によって友好関係を保持することもあれば、同盟を結ぶこともあり、時には戦争に立ち至ることだってある。それは古今東西の歴史が厳然と教えているではないか。

 

「同文同種唇齒ノ國」などという常套句は、彼らが自らの立場を有利に導くための方便にすぎない。にもかかわらず明治初期の段階で、すでに日本の一部が「同文同種唇齒ノ國」などという“疑似餌”に食らいついていたわけだ。蔣介石は主に共産党との内戦を有利に展開するため、あの台詞を口ずさんだ。にもかかわらず、我が国朝野の一部が“日本の窮状を慮った温情”と思い込んでしまう。なんともお人好しの限りだが、その種の思い込みこそ、蔣介石たちが逃げ込み、「中華民国=自由中国」などと僭称するようになって以後の台湾への対応を誤らせたことはいうまでもない。

 

さて毛沢東の台詞だが、その狙いは日本の国論を分裂させよ。日本人に日本の歴史を蔑視させよ。日本人に過去の指導者を断罪させよ。日本人の心に徹底して贖罪意識を植え付けよ――である。毛沢東独特の詐術に引っかかってしまった我が心優しき市民派や心情反戦派、さらに人道主義者は、日中戦争の発端から終結までの全過程の責任を軍国主義者になすりつけることで“免罪符”を得たと思い込まされた。かくて日本人の前で“空前の有徳の指導者”として振舞う毛沢東によって、日本と日本人は翻弄されることとなった。

 

中国側からする一連の洗脳工作については、いずれ機会を改めることとし、本題に戻る。

 

曾根の主張からして、どうやら当時、すでに日本と清国(=中国)は「兄弟」であり、「歐米ノ凌辱」を跳ね返すためには、「一家ノ爭鬪ヲ釀成スル」ことなく、「家庭ニ葛藤アルモ豈ニ平穏ニ之ヲ治スルノ良法ヲ求メザルベケンヤ」という考えがあったことが判る。

 

2つの国家の関係を「兄弟」やら「一家」と見做すこと自体に極めて強烈な違和感を覚えるが、利害関係が異なる両国の緊張した間柄を、「家庭ニ葛藤」と捉え、さらには話し合いで平穏に収めるべきだなどと、いったい、何を根拠に、こんな世迷い事を口にできるのか。やはり曾根の神経を疑わざるを得ない。

 

曾根は続けて、「余ハ是レ漫遊ノ一書生又囁々スルヲ要ス可キニ非ザレハ」と“泣き言”を記しているが、やはり曾根の考えは当時の政府要路に受け入れられず、それゆえに曾根は自らを「漫遊ノ一書生」などと拗ねてみせたのだろう。

 

一連の曾根の記述から、当時すでに日本で清国(=中国)に関心を持つ人々のなかに、日清のどちらが「兄」で「弟」なのかは不明だが、「兄弟」が力を合わせることで「歐米ノ凌辱」を撥ね退けようという考えがあったと判断しても強ち間違いはないだろう。《QED》