【知道中国 1219回】                       一五・三・念五

――「民口無慮四億萬其食鴉片者居十之一」(竹添5)

竹添進一郎『棧雲峽雨日記』(中溝熊象 明治十二年)

明治9(1875)年5月2日に北京を発った竹添は、7月20日に「陪都」と呼ばれ、蜀(四川)の中心の成都に次ぐ大都市で、揚子江の本流と嘉陵江に挟まれた要害の街である重慶に到着する。川面から「百八十餘」の石段を登って、やっと城門。さらに「九十餘」の階段を登らないと街には行き着けない。盛夏で水はなく、山の水には瘴気が含まれている。井戸水は飲用には使えない。「烈日赫赫復在洪爐中矣」と綴るが、字面からも夏の重慶の暑熱が伝わって来るようだ。

 

とある一日、岩塩を運搬する船に乗った。甲板では年上の男が口角泡を飛ばし、「洪鐘(われがね)」のような大声で叱咤し操船を命じている。手にした太い竹の棒で背中を打ち据えられても、船員は黙って耐える。背中は「紫黑色」の傷が層をなしていて、傍から見ても「酸鼻」を極め、気の毒すぎる。

 

宿は何処でも「蟲に苦しめられ、安眠する能わず」。薄い紅色で丸く偏平で3つの角を持つ。「臭蟲」と呼ぶとのことだが、「不潔の所に生ずる」。夜になるとモソモソと活動を始め、人の体に纏わりつき、肌に噛み付く。痒くて堪らず、掻くと出血し、化膿する。1ヶ月経っても、傷は治らない。

 

生活環境は劣悪だが、自然環境は期待通り。「神飛魂馳(心揺さぶられ魂は飛ぶ)」の境地に誘ってくれた四川の山川草木の姿を、竹添は、自らの漢詩文能力のあらんかぎりを尽くして記している。

 

――たとえば山の形状が「雄偉奇状の観」だとか、瀑布の景観の素晴らしさはどんなに優れた画家でも絵に描きえないだろうとか、急流が岩に当たって水が糸のように飛び散りキラキラと陽光に映え玉のようだとか、やっと流れが緩やかになり街らしい街に近づく様を「千軍萬馬の中を出で、あたかも燈紅酒緑の場に入るが如し」とか、ここは三国時代には魏に属していた地だとか――

 

確かに漢文としては素晴らしい。今から半世紀以上も昔の高校時代の漢文の授業で『棧雲峽雨日記』のハイライトの部分を暗記させられたが、それが忽然と頭の中に蘇えり、口を衝いて出てきた。だから、それはそれで懐かしい。だが、余りにも定型化したコレゾ漢文デゴザイマスといった調子の表現が続くと、やはりウンザリで鼻白む。ダカラドウナノ、というのは酷評に過ぎるだろうか。

 

明治9年5月2日に北京を発ってから8月21日に上海に到着するまでの苦難の旅には、正直言って頭が下がる。だがやはり肝心なことは、当時の中国のありのままの姿を捉え、民度・民力を的確に推し量ることではなかったか。酷評することが許されるなら、自然を眺め悦に入り、「神飛魂馳」の境地に遊び、漢詩文の力を披歴しても仕方がないだろう、に。

 

やはり文久二年の千歳丸一行が残した記録に較べ、『棧雲峽雨日記』の行間からは緊張感が湧き上がってこない。かてて加えて、高杉や中牟田らの振る舞いから感じられた清国と「土人」に対する強烈な関心とある種の同情心が、竹添のそれからは受け取り難い。巻末に寄せた勝海舟、井上毅、中村正直などの「跋」、竹添が旅のつれづれに詠じた『棧雲峽雨詩草』の巻頭に掲げられた福島種臣、中村正直などの「序」の行間からは、なにやら功なり名を遂げた成功者の驕りに加え、今風の表現でいう「上から目線」が仄見えてくる。

 

千歳丸の上海行きから竹添の蜀(四川)旅行まで、十有余年が過ぎた。この間、幕府から維新政府へと激変した日本に対し、西欧列強の侵食が進み、相変わらず気息奄々と亡国への道を歩むしかない清国とを比較するなら、ある面では致し方ないことでもあったろう。

 

西欧列強の跳梁に清国の混乱・・・我が「対支外交」は、いよいよ本格始動だ。《QED》