【知道中国 1218回】                       一五・三・念二

――「民口無慮四億萬其食鴉片者居十之一」(竹添4)

竹添進一郎『棧雲峽雨日記』(中溝熊象 明治十二年)

苦難の旅はまだまだ続く。

 

ある宿では夜盗に衣服を盗まれてしまった。

 

時に突然の雨。泥濘の深さは「尺許」に及び、一足踏むと足は泥にズブズブとめり込んでしまい、「不可復抜(復た抜く可わず)」。ならば近道を取ろうと渓流を遡るが、膝まで水だ。輿夫は足で川底の石を探りながら進む。左側が深そうだと思えば右側に移り、右側が危ないと感じたら輿を左側に寄せる。そのたびに輿に坐る竹添は左に揺れ右に傾く。これこそ「正路(ほんどう)」を捨てて却って危難に出くわす典型だ。浅知恵というものだろう。そこで竹添は、「智を以てするも實は愚なるか」と頻りに反省する。

 

竹添は北京からの旅を、次のように振り返ってみた。

 

北京から西安に入って、辺りの情景は一変した。大地は荒涼とし稲米を口にすることは難しい。「中原秦中(ちゅうごくのどまんなか)」はこんなものだ。「中原秦中」を離れ、いよいよ四川への山道に差し掛かると、山は深く険しく自然は厳しく、そこ此処に狐や山兎が巣を造り、虎や狼が吠え叫んでいる。道は峻嶮このうえなく、布団から食糧までを携行するだけに、旅は辛い限りだ。

 

だが、そんな旅を耐えて四川に入れば、米やら食糧に困ることはない。山間の土地ですら見事に耕され、田畠となっている。どこに行っても壮麗なまでの大寺院が珍しくなく、犬や鶏の鳴き声が喧しく聞かれ、牛や羊は道路を悠然と歩き、岩肌の険しい道は鑿で平に削られ、棧道も危険な個所には転落防止用に手すりや囲いが設けてある。そればかりが、棧道とはいえ広い部分では馬が並走できるほどであった。

 

周囲の厳しい自然環境が天然の要害となり、昔から「外寇(がいてき)」の侵入に苦しめられることは稀で、その豊かさゆえに四川は「天府の国」と呼ばれてきた。人々は正直で剽悍で、辺境には匪賊やら少数民族が住んでいた。

 

一般には仏教が盛んに行なわれていたが、最近になって「妖教(きりすときょう)」がヒタヒタと侵入し、「全省の教會、蓋し數十萬と云う」情況だ。

 

四川の人々は「妖教」を好まない。だが、無頼の徒が教会を騙って横暴の限りを尽くしている。ところが宣教師は、そんなことを意に介さない。そこで人々が訴えるが、官は取り合わない。不満を募らせた民衆は「群起し教徒を殺す」ことになる。同治12(1873)年には「十餘萬人」が決起し教会の焼き討ちを決行する。そこでフランス人宣教師が煽動者を提訴するだけでなく、役人は首謀者の逮捕を命じた。

 

「妖教」を巡って続いた社会不安について竹添は記しているが、ここで注目しておくべきは、北京に在る日本公使館員である竹添と同僚とが辛苦の果てに辿り着いた四川では、すでにフラン人宣教師が「妖教」を使ってフランスの影響力扶植に努めていたという点だろう。いわば竹添がやっと訪れた四川だったが、フランス人宣教師が省の全域に設けた「數十萬」の教会を拠点にいち早く「妖教」を浸透させていたのである。

 

フランスがベトナムに領土的野心を抱いたのは、アヘン戦争勃発直後の1840年代。じつはフランスは竹添の四川旅行から6年後の1882年に占領したハノイを拠点に、雲南省への侵攻を開始するのであった。同じ時期、イギリスはインド・ビルマの両植民地を経由して、同じく雲南省を目指した。四川が雲南の北に隣接することを考えるなら、フラン人宣教師が清国に対するフランスの帝国主義的野心の「先兵」であったと考えても、強ち間違いはないはず。インテリジェンスこそが、かの宣教師の最大の任務だっただろうに。

 

衰亡する清国を舞台とした西欧列強による大競争は、とうに始まっていたのだ。《QED》