【知道中国 1018】    一四・一・初五

 ――「中国政府はなぜこれほど金持なのだろう?」(本多の4)

 「重慶の印象」(本多秋五 『世界紀行文学全集』修道社 昭和46年)

 本多は「四川の人は、北京や山東辺りの人間に較べて体が小さいといわれる」とした後、「北方の人たちが、皮膚の厚い感じの人が多いのに較べて、この辺の人たちは皮膚のうすい、感情の動きのこまかい人が多いようだ」と綴る。だが果たして、そういえるのか。

 じつは歴史的にみて四川は、往古より中国各地からの大量移入が繰り返されてきた土地なのだ。記録に残る最初の大量移入は、秦の始皇帝による黄河中流域一帯からの5万家族移住。最近の例では日中戦争の際、四川を中心とする一帯を抗日根拠地にすべく「大後方」と呼び、首都の南京を放棄した蔣介石政権が移ってきた。その際、南京はもとより上海、北京などの主要都市から官公庁や大学などの公共機関に加え主要工場などと共に700万人ともいわれる人々が四川入り。始皇帝から蔣介石まで、大量移入が繰り返されてきたのだ。

 つまり四川の住人とは中国各地からの時代を異にした移入者を祖先に持ち、各地の血と文化とが混淆された生活環境の中で生きて来た。濃淡の差はあれ、中国各地に生きる人々の特徴を併せ持っているといっていいだろう。だから「四川の人は、北京や山東辺りの人間に較べて体が小さい」とか、「皮膚のうすい、感情の動きのこまかい人が多い」などと短単純に結論づけないほうがよさそうに思える。やや強引な喩だが、我が国の例に照らすなら、四川人は全国からの移住者によって形作られた北海道人に近いと考えてもよさそうだ。

 内陸奥地に位置する四川で省都の成都に次ぐ第2の都市である重慶は、長江を通じ上海と結ばれている。そこで古くから外に向かって開けた開明的な街だった。そんな重慶を「古いものと、新しいものとの、複雑な畳まり合いのなかで、素朴な人間味が生き生きと動いていて、なにごとか新しいことを仕出かそうと企む新種の活気があふれている」と記す。

 かくて本多は、「重慶は私に印象深かったばかりでなく、私は大へん重慶が好きになった」という。だが、「どこが一体そんなに気に入ったのかといわれれば」と自問し、「あのホテルの女の子がいるような重慶が好きだ、と答えてもいい」と“告白”する。「あのホテルの女の子」とは、本多が宿泊したホテルの「女事務員」で、「女事務員というより女の子といった方がぴったりする。いかにも素人っぽい少女たちであった」とのことだが、特に本多に少女趣味があったわけでもないだろう。

 じつは「洗濯物を出して、代価を払おうとすると、どうしても受け取らない。訳をきくと、私たちが洗ったのだからいらない」。いやはや、無料で洗濯をしてくれる女の子が働くホテルがあるから「重慶が好きだ」とは、単純極まりない文芸評論家のセンセイだ。まるで本多より2年早い昭和29(1957)年に訪中し、「お酒は飲み放題である。三度の食事のときはもとより、家の中でもほしければいくらでも注文できる」「航空便をだすといっても、小包を送るといっても電報をいつといっても、荷造りから切手代まで全部むこうもちでやってしまってくれる」と記した挙句の果てに、「だから私たちはムヤミに優遇されている」と有頂天になっていた哲学者の柳田謙十郎センセイと同じではないか。

 本多にせよ柳田にせよ、彼ら進歩的人士は爪の先ほどの想像力も持ち合わせていない代わりに、傲慢な選良意識に溢れていたようだ。場所はホテルである。洗濯、酒、航空便、小包、電報、荷造りの手間賃、切手代――何から何まで有料であり、彼らが称える「人民」の手を煩わせなければならないはず。おそらく本多にしても帰国後の講演会かなんぞで、「中国のホテルでは洗濯代も無料だ。素晴らしいではないか」などと口角泡を飛ばして駄法螺を吹いていたに違いない。ホテルで働く「素人っぽい少女たち」を使って本多に洗脳工作を施し、その本多が日本で新中国の素晴らしさの喧伝に務める。これは悪い冗談などといって済まされる問題ではない。むしろ、巧妙で悪質なプロパガンダではないか。《QED》