【知道中国 1217回】                       一五・三・二十

――「民口無慮四億萬其食鴉片者居十之一」(竹添3)

竹添進一郎『棧雲峽雨日記』(中溝熊象 明治十二年)

北京を発って20日目、洛陽を離れ西に向かう。

 

畠の畔で一休み。一望千里。何処にも稲は見当たらない。中国西北部のこの辺りの人々は、麦や高粱を食べている。大都市であっても米を食べることは稀だ。おかずといえば油を加えて煮た豚で、胡椒やネギの類も油で調理するから、とても食べられたものではない。醤油は苦く酒はスッパイうえに、なかなか手に入らない。醸造したコウリャンは度が強く、鍋料理の燃料にも使えるほど。田には溝渠が作られていないから、少しの雨でも排水ができずに冠水してしまう。だが、コウリャンは水をものともせず水没しても成長する。茎は束ねて屋根を葺いたり、蓆に編んだり、炊事に使ったり、じつに便利なものだ。

 

いよいよ新旧の2つの函谷関にさしかかった。

 

そこ此処に堡塁が設けられ辺境の備えをしている。警備のために民間から強そうな者を集め「兵勇」と称して配備しているが、誰もが乱を好む無頼の徒だ。形勢不利となれば逃げだして群盗となり禍を引き起こす。悲惨の限りで、民衆は彼らを虎狼より恐れている。だから自分たちで堡塁を構えて守らなければならない。明代末期に社会を混乱と恐怖に陥れた李自成やら張献忠などがこの類で、逃亡兵ほど始末に困ったものはない。

 

北京から29日目の黎明、楊貴妃が浴びたと伝えられる華清池に到着。じつは29日の間、宿には風呂の設備なく、顔は脂ぎったまま。体は垢だらけ。臭くて堪らず、吐き気を催すほどだったから、何回も温泉につかり極めて爽快な気分だ。

 

その日の正午、関中平野の中心である古都・西安に。

 

周囲を山に囲まれ、大河が流れ、「沃野千里天府之國」と呼ばれ、穀物と養蚕で栄えた関中平野だが、かつて人々が丹精込めて耕した田畑は荒れ果て土地は痩せるに任せたまま。河から水を汲み上げる方法も途絶えてしまった。秦にせよ漢にせよ唐にせよ、王朝を打ち立て、「民を利し國を富ませ」、長きに亘って天下に覇を唱えることができたのも西北があったればこそ。それゆえに、かつては「天下之利、多く西北に在り」といった。ところが宋代以降、歴代王朝が天下経営の基盤を東南地域に移したことから、西北は打ち捨てられたまま。かくして「西北之地は荒れ、民は窮す」ことになってしまった。

 

竹添は「自序」で清国の複雑極まる貨幣制度について言及しているが、ともかく全土で統一した貨幣制度がなかった。旅する場合には、どこでも通用する銀を携行し、必要に応じて切り取って目方を計り、その地方の銅貨に換算して使っていた。そこで竹添も北京の両替屋で銀を買って持ち歩いていたが、いざ使おうとすると、銀は外側だけで内側は銅。かくして竹添は商人の悪辣さに呆れ果て、「憎む可し」と。

 

西安を発って西に向かうと「山路は峻嶮」となる。車を捨て、これからは時に轎、時に徒歩の旅となる。

 

いよいよ「蜀の棧道」だ。切り立った岩壁に穴を穿ち、そこに差し込まれた丸太を繋ぎ道としている。片側は水が滴り落ちる岩壁で、片側は目も眩む千尋の谷。時に谷底まで下り渓流を歩く。危岸を越えると、今度は小径が山肌を縫うようにうねうねと続く。「仰ぎて天光を視れば、井底に在るが如し」。さらに進むと「山は益々峻にして、路は益々險(あや)うし。下は則ち深谷千仭。奔流は激しく射ち、雷は轟き、雲は翻る」。「盲雨は忽ちに至り、大きこと彈丸の如し」。小径はいよいよ峻嶮になり、後を歩く人は、まるで前を歩く人を抱き抱えているようだ。山頂に至って見渡せば、まるで肘の下に周囲の峰々が在るが如し。

 

頭上からは山肌を縫って水滴が「滴滴と絶えず」、足は渓流に濡れっぱなし。時に「雨、又、絶えず、轎中に在って衣は襦(ぬ)れ」たままでビッショビショ。酷い旅だ。《QED》、