【知道中国 1216回】                       一五・三・仲八

――「民口無慮四億萬其食鴉片者居十之一」(竹添2)

竹添進一郎『棧雲峽雨日記』(中溝熊象 明治十二年)

北京を発って5日目、街道で乞食に出くわす。旅人とみれば、前に立って進路を遮り、後に廻っては秋の蝉が木に縋り付いて咽び泣くように「啾啾(ちっチィ)」と憐れみを乞う。

 

郊外を歩けば強い風が巻き起こり、砂埃が目に飛び込み目を開けていられない。仕方なく同行の津田と毛布を被って馬車の中に蹲るばかり。やがて目的地到着の知らせにソロソロと馬車から這いずりでて車夫の顔を見ると、黒い顔は砂埃で白く変じ、眼光は炯々と鋭く、まるで悪霊のようだ。かくて思わず失笑する始末。

 

目を転ずると、周囲一面は見渡す限りの麦畑。丈は1尺ばかり。日照り故に成長していないが、茎は勁そうだ。

 

さらに西に進む。こんどは周囲一面が荒沙の地で、米穀類は育たない。かくて人々の命を繋げるのは専ら木の葉となる。薪炭が乏しいから、木の根を薪代わりに暖を取り炊事をする。時には馬糞を拾って乾燥させ、炭の代用にして寒さを防ぐことになる。だから、冬になってオンドルに寝ると、臭くて堪らないという。

 

カラカラに乾燥した砂地の道では馬車の車輪が取られ、馬3匹を使っても1台の馬車も引けないほど。とある店で「干子」と呼ばれる白い土塊を売っている。なんでも麦の粉と混ぜ、餅を作って食用に供するとか。

 

ある地方では、樹木を大いに育てているが、幹で家を造り、枝を薪とし、根っこを深く掘って馬糞を埋めて肥料とし、根を十分に張らせることで洪水にも耐えられるよう頑丈な土手造りに励んでいる。たくさんの木の実を稔らせて保存し、凶作に備える。

 

北京を離れてから18日目、竹添は黄河の岸に辿り着く。

 

黄河を目の当たりにした竹添は、「河廣十里、濁浪洶涌、使人心悸、宜矣秋潦一至、汎濫數十里、不復辨涯?(川の幅は十里。濁った波は滔々と逆巻き、人の心臓を揺さぶる。一たび秋の洪水になったら、数十里の幅に氾濫し、どこまでが河やら、その果てが判らないほどだ)」と、感慨深げに綴る。

 

竹添は何気なく文字を連ねたのだろうが、漢字・漢文による表現は声を出して読むと調子よく勇ましいが、その分だけ大袈裟になりがちだ。いや漢字や漢文に拠る限り、否応なく大仰な言い回しにならざるを得ないというべき。とするなら、やはり漢文(ひいては現代中国語も)という言語表現は、その内容を相当に割り引いてもよいのではないか。であればこそ、やはり彼らの言い分を、そのまま鵜呑みにしてはいけないということだろう。

 

かくて黄河を越えて河南省に入る。

 

地味は肥え、穀物・絹・綿花・木材などに恵まれ豊かなはずだが、近年では鴉片が大流行で、一帯では罌粟栽培が盛んだが、西に行くほどに多い。辺境の民は誰もが鴉片を吸っている。隣の山西省では男女を問わず10人中7、8人は吸っている。鴉片は四川、広西、雲南、貴州が最も多く、品質では雲南モノが最上だ。だがインド産の「和潤」さには敵わず、金持ちは必ず「洋舶(インド産)」を口にする。

 

聞くところでは清国の人口は4億だが、その10分の1が吸引しているとして4000万人になり、膨大な金額が煙と消えてしまう。鴉片吸引は体に有益とはいうが、実際は精力を萎えさせ命を縮ませる。その害は鴆より甚だしい。100年後、4億の民は悉く衰亡し、中国人は絶滅の危機に瀕していることを恐れる。だから、民の父母たる者は、一日も早く罌粟栽培を止めるべきだ。

 

――書物で学んだバーチャルな中国ではない現実の中国を、竹添は淡々と綴る。それしても竹添の危機感から150年余が過ぎた現在、鴉片禍が再び猛威を振るう。何故。《QED》