【知道中国 1215回】                       一五・三・仲六

――「民口無慮四億萬其食鴉片者居十之一」(竹添1)

竹添進一郎『棧雲峽雨日記』(中溝熊象 明治十二年)

竹添進一郎(天保12=1841年~大正6=1917年)。号は井井。熊本藩士。生年の天保12年には日本では水野忠邦による天保の改革が断行され、中国では前年にアヘン戦争が勃発し、翌天保13年には南京条約が結ばれている。明治維新においては藩の参謀として働いたとか。新政府の大蔵省に出仕した後、天津領事、朝鮮弁理公使、北京公使館書記官、韓国弁理公使などを歴任。清仏戦争(1884~85年)の間に朝鮮で起きた甲申事変(1884年12月)において日本軍を指揮。その責任を取る形で公使を辞任。以後、東大で『春秋左氏伝』など中国古典を講義。

 

明治8(1875)年11月から在北京公使館勤務となった竹添は、四川からの客の誰もが説く四川の天然風土は一度目にしたら「神飛魂馳(心揺さぶられ魂は飛ぶ)」との賛辞に居ても立ってもいられず、森有礼公使の許可を得て、同僚の津田君亮と共に四川への旅に立つ。時に明治9(1876)年5月2日。1週間後の5月9日には、明治天皇が臨幸され東京上野動物園の開園式が行われている。

 

北京を発って西に向かった竹添は、旧都・西安を経て四川入りし、やがて長江を下り上海に到着したのが8月21日。この間の日々を詳細に、しかも漢文で綴ったのが『棧雲峽雨日記』である。明治12年に出版された版本が手許にあるが、巻頭には三條實美、伊藤博文、「欽差北洋通商大臣太子太保文華殿大學士直隷総督一等・・・合肥」と長ったらしい肩書の李鴻章、清末の大学者兪曲園などが題字やら序文を添え、巻末には井上毅、勝海舟、福島種臣、中村正直など維新の元勲などが跋文やら賛辞を寄せているが、ここからだけでも出版当時の竹添の“立ち位置”が尋常ではないことが判るはずだ。

 

日記本文に入る前に、先ず「自序」に現れた竹添の中国認識を見ておきたい。なお『棧雲峽雨日記』は題字やら跋文、賛辞を含め開巻第1頁から最終頁まですべて漢文だが、必要に応じて原漢文を示すが、基本的には適宜意訳しておくこととする。

 

――中国では大商人は財産を擁し店舗を連ね、「緑眼紫髯之徒(せいようじん)」と巨万の利益を争っている。輸出の倍を輸入しているから、負債が増す。ともかくも海外からの新奇な輸入品を有り難がるが、それはまるで盲人が色を選び、聾唖者が音を求める様なもので無意味だ。

 

中国は西欧から戦艦兵器を取り入れ、西洋人が考えた運用法を取り入れて富強を目指しているが、同じく海外から持ち込んだものではあるものの、目下のところは、これが最善の富強策だろう。

 

これまで禹域(ちゅうごく)を遍く歩き、多くの人々と交流を重ねてきたが、君子は「忠信好學」で小人は力(つとめ)て利を競い、苦労をものともせず、不撓不屈で金儲けに励む。だが社会の上層は「擧業(かきょ)」に囚われ、下層は「苛斂(あくせい)」に苦しめられてきた。だから社会全体は萎縮し振わない。その有様を例えるならば、藪医者の診断を受けた病人のようなものであり、これでは社会が病状を脱し、健康に復するわけがない。日を重ねるごとに病状は悪化するばかりだ。

 

だが、完全にダメになったわけでもない。適切な診断が下され、薬が投与されれば、健康を回復し、起つこともできるだろう。だが世間には「蠱惑(おもいこみ)」という病があって、薬を飲んだら脈拍が上がり興奮し、まるで強健になったように勘違してしまう者がある一方、その姿を見て第三者が慌てだすこともある。どちらがマトモなのか。やはり他国の情況を見るとは、そういうこと。容易いことではないものだ――

 

かくて竹添は自らの目と足とを頼りに、四川への大旅行に旅立つのであった。《QED》