【知道中国 1212回】                       一五・三・十

――「右顧左眄頭ヲ垂レ糞ヲ尋ヌ糞山溺海・・・」(曾根11)

曾根俊虎『北支那紀行』(出版所不詳 明治八・九年)

『北支那紀行』は前中後の3編に分れ、前篇は明治8年の天津から盛京(奉天)への旅、中編は明治7年の江蘇・浙江の旅、後編は明治9年の上海から北上して山東への旅が主となっている。

 

江蘇・浙江へは、「町田海軍大主計」と通訳との3人で旅立った。この地方は水路が四通八達しているところから、ジャンク1隻を買い、船頭3人を雇うことになる。

 

中編でも前編と同じように、本来の任務と思われる兵要地志作りに励み、目に入る限りの四囲の地形、川幅、橋の形状、目標物の位置、村落の様子と村落間の方向・距離などを克明に記しているが、「時ニ老若男女貧人貴者ノ別無ク兩岸ニ群集シテ我輩ヲ望見シ交來リ交去リ殆ド市ノ如シ此レヨリ後は到處皆此ノ如シ」などとも記す。曾根の乘る船が進む先々で、初めて見る日本人に好奇の目が向けられている様子はアリアリ。「夜中巡邏スル者有リ砲ヲ發シ鐘ヲ鳴シ盗賊ニ備フ」とか、「徹夜鐘鼓ヲ鳴ラシ以テ盗賊ニ備ヘリ」とか。さらには「(旅館では)夜ヲ守ル者有リ發銃鳴鐘シ不慮ニ備フ」などという記述が散見されるが、それほどまでに夜盗が日常化していたということだろう。

 

景勝地の西湖で「先年日本ノ僧侶來リテ留學セシ」寺を訪ねた折、住職は歓待しながらも「慘然トシテ我輩ニ向ヒ」て「時態ノ變遷ハ悲痛ニ堪ヘザルナリ」と告げるのであった。

 

なんでも宋代末期の創建になる内外に知られた「杭州第一等ノ名寺」で、かつては常に600人ほどの僧侶が修業していたが、清代の同治帝の治世(1861年~74年)に入ると「廟堂肉食ノ官員苛酷聚斂ヲ以テ偏ニ我ガ利ヲ求メ我ガ欲ヲ貪ルニ因リ賄賂盛ニ行ハレ言路閉塞シ政敎弛廢シ下情上達セズ上意下達セズ幾億方ノ生靈倒懸ノ苦ニ遇ヒ朝ニ凍死シ夕ニ餓死シテ人民ノ痛恨滔々トシ全國皆是ナリ」。全土は「荒蕪荊棘ノ地ニ變シ深夜ハ鬼火青ク狐狸悲ミ白日モ陰雨冷カニシテ迷烏咽ビ詣拜人希レニシテ山門常ニ鎖セリ」と。かくして「愚僧今ニ在テ昔ヲ憶へバ紅涙潜然トシテ黑衣ヲ濕スニ至ル」と。

 

同治年間といえば、アメリカに初の留学生を派遣し、西南地区の回教徒の反乱を平定し、頓挫したとはいえ「同治の中興」と呼ばれる近代化策を果敢に進めるなど、清朝再興に努めたわけだが、曾根が聞かされた僧侶の悲痛な叫びからするなら、同治帝即位の前後には、すでに清朝は国家の体をなしてはいなかったということになる。

 

曾根は、この僧侶は太平天国の乱について述べているのだと断り書きをしているが、それしても「朝ニ凍死シ夕ニ餓死シテ人民ノ痛恨滔々トシ全國皆是ナリ」とは凄まじい限りだ。だが、振り返ってみれば毛沢東が1958年に無謀にも進めた大躍進政策の結末もまた、やはり「朝ニ凍死シ夕ニ餓死シテ人民ノ痛恨滔々トシ全國皆是ナリ」ではなかったか。

 

ところで「廟堂肉食ノ官員苛酷聚斂ヲ以テ偏ニ我ガ利ヲ求メ我ガ欲ヲ貪ルニ因リ賄賂盛ニ行ハレ言路閉塞シ政敎弛廢シ下情上達セズ上意下達セズ」の部分を読み返してみると、なにやら開放政策に踏み切ってから35年余り、カネ儲けが国是となった現在の中国が抱えた病理を言い表しているように思える。つまり幹部という名の貪官汚吏(「廟堂肉食ノ官員」)が溢れ、「偏ニ我ガ利ヲ求メ我ガ欲ヲ貪」り、「賄賂盛ニ行ハレ」、言論は統制され綱紀は弛緩し(「言路閉塞シ政敎弛廢シ」)、民意が汲み取られることなく(「下情上達セズ」)、政権の威令は末端まで及ばない(「上意下達セズ」)――ということだ。

 

同治年間から150年余が過ぎた21世紀初頭の現在、習近平政権は必死になって党・政府・解放軍の幹部による不正摘発に努めてはいる。だが、そのこと自体が中国では時代は変われども政治は「廟堂肉食ノ官員」が専横し、「廟堂肉食ノ官員」は絶滅することのないゾンビのような存在であることを言い表しているように思える。嗚呼、処置ナシだ。《QED》