【知道中国 1210回】                       一五・三・初四

――「右顧左眄頭ヲ垂レ糞ヲ尋ヌ糞山溺海・・・」(曾根9)

曾根俊虎『北支那紀行』(出版所不詳 明治八・九年)

古来中国では、打ち続く大規模な自然災害による大量の犠牲者や餓死者、さらには行倒れなど、夥しい数の死体を如何に処理するかが時代を超えた難問だった。明代頃になると、篤志家が浄財を醵出し合い善堂と呼ばれる仏教・道教系の慈善団体を組織し、街の郊外に巨大な「坑」を掘って大量の遺体を葬ったのである。多くの人(万人)を埋葬する墓穴(坑)だから「万人坑」であり、決して日本軍国主義による“蛮行の証”ではないのだ。

 

さて曾根は地方踏査のある夜、寝床の中で、「余床中熟思スルニ顔色衣装支那人ト同一亦語言モ稍解シ得可ケレバ土人ノ吾ヲ疑フ其理決シテ無ク可シ」と考えた。顔かたちも服装も中国人と同じであり、中国語も少し判るわけだから、日本人と疑われることはないだろうと、案内の中国人を断って独行する。そこで、こんなことがあった。

 

ある軍営の前に差し掛かると、警護の兵士に「何クヨリ來リ何ヲ業トスルヤ」と誰何されたので、天津の西洋商社からやって来た者だと応じた。ならば天津人かと問われたので、広東の生まれです、と。こう答えておけば、怪しい中国語も、広東語訛りだと誤魔化せると考えたのだろう。すると今度は、近寄ってきて曾根の被っていた「假豚尾(ニセ弁髪)」を引っ張りながら、なぜ髪の毛を剃って弁髪にしていないんだと詰問する。そこで曾根は自分から假豚尾を取って見せて、じつは外国には「我國ノ剃頭師無」く、「我レ大英國ニ在ルヿ七年ニシテ今春國ニ歸リ髪未ダ長ゼ」ず。だから頭に假豚尾を戴いています、と。

 

時に「滿洲騎兵」に出会うが、「本朝ノ騎兵ニ較スレハ壯虎ト衰牛ノ如シ」。

 

旅館については、「實ニ如何ナル上等ノ旅店ト雖モ本邦ノ所謂木錢宿ニ比スレバ三舎ヲ避ク可シ」。

 

旅館の食事だが、高粱で作った麺や餅、或いは粟を炊いたもので、白米は稀で、ともかくも「咽ヲ過ス可キ者ニ非ス」。豚肉だけは豊富だが、どの旅館でも豚肉に韮を混ぜたものだけ。中国人にとってはご馳走だろうが、「我輩ニ至リテハ臭氣厭フ而已ナラス途上豚ノ糞汁中ニ起居シテ汚穢ヲ極メタル所ヲ見シ眼ニハ箸ヲ下スニ堪ヘス況ヤ之レニ加フルニ煎蒜ヲ以テスルヲヤ總テ支那人蒜臭ヲ好ムヿ甚シ」。加えるに「下等社會ニ至リテハ終年沐浴セズ身上ニ垢ヲ以テ造リタルガ如キ衣ヲ着シ臭蒜ヲ食フ故ニ一種特別ノ臭氣ヲ帶ヒ人ヲシテ嘔氣ヲ發セシ」と。

 

いわば「汚穢ヲ極メタル所」で糞尿塗れに飼われた豚に食欲が湧くわけがないが、さらにさらに焙ったニンニクだから、とてもじゃないが我慢がならない。「下等社會」の住民は一年中体を清めることもなく垢だらけの服を纏い、臭いニンニクを口にしているから、「一種特別ノ臭氣ヲ帶ヒ」ている。だからもう、もう我慢ならぬ。

 

曾根は余ほど韮・ニンニクが嫌いと見えるが、京都支那学派の異端児ともいえる青木正児(明治20=1887年~昭和39=1964年)は初期の代表作ともいえる『江南春』(平凡社東洋文庫 昭和47年)で中国文化、あるいは中国人と韮やニンニクの関係についてこう記す。

 

「支那芸術は正に韮のようなものだ。一たびその味わいを滄服したならば何とも云い知らぬ妙味を覚える。更に進んでは阿片の如きであろう、心身を蕩して心酔さえねばおかぬ。恐らくそれは門外漢にとっては決して美感快感を与うるものではあるまい、寧ろ醜であろう悪であろう。しかも一たび足をその域に投ずるに及んでは絶大の美であり、無情の快である」「韮菜と蒜とは、利己主義にして楽天的なる中国人の国民性を最もよく表せる食物なり。己れこれを食えば香ばしくして旨くてたまらず、己れ食らわずして人の食いたる側に居れば鼻もちならず。しかれども人の迷惑を気にして居てはこの美味は得られず」。

 

「利己主義にして楽天的なる」人々は、やはり「人の迷惑を気にして居」ない。《QED》