【知道中国 1209回】                       一五・三・初二

――「右顧左眄頭ヲ垂レ糞ヲ尋ヌ糞山溺海・・・」(曾根8)

曾根俊虎『北支那紀行』(出版所不詳 明治八・九年)

前の晩に喧嘩して撲殺された死体で、そういう死体は収容されることもなく「恰モ猫狗ノ死屍」のように道端に放り出しておくのが「當地ノ風習」とのことだ。当時の地方都市の生活の一端が伺える。

 

大孤山一帯の探索が不可能であることを知った曾根は英領事館、知り合った「佛敎師」や中国人に別れを告げる。その際、「主人」から、7年前の1868年に米仏両国が朝鮮を攻撃した際、清朝は奉天から1万5千人ほどの援軍を送ったが、北京駐在の米仏両国公使は極めて緊密に連携し、これを察知した。朝鮮有事の際、日本が兵を動かすようなことがあったなら「清朝亦舊轍ヲ踏ミ必ラズ」や援軍を派遣するだろう。その場合は奉天近辺からの派遣ということになると予想され、その時は「上海貴國ノ領事迄報告スベシ」――と告げられたと記している。

 

前後の文脈から「主人」は英国領事と思われるが、なぜ、これほどまでに日本に好意を示すのか。

 

日清戦争の戦端が開かれたのは、「主人」が曾根に「上海貴國ノ領事迄報告スベシ」と語りかけたから20年ほどが過ぎた1894年のこと。またロシアの満州・朝鮮への進出を防止しようとする日本とロシアの南下を警戒する英国との間で日英同盟(第一次)が結ばれたのは、曾根の旅行に遅れること四半世紀程が過ぎた1902年だった。英国領事が、なぜ、これほどまでに日本に好意を示すのか。常識的に考えるなら「主人」が示した好意は曾根に対しての個人的なそれではなく、やはり英国外交当局(ということは英国政府)の日本に対するそれということだろう。ならば英国は早い段階から日本を、そのアジア外交の“手段”に仕立てようと目論んでいたようにも思えてくる。

 

やや強引な考えだとは思うが、当時、すでに「主人」(ということは英国政府)は、遠からぬ将来に日清両国の間で朝鮮半島をめぐって武力衝突が起こると予想していただけでなく、その場合は日本側に立とうと目論んでいた。ならば日本は自らの意向に拘わらずに、東アジアをめぐる欧米列強の国際ゲームに参入せざるをえない時期に立ち至っていたのか。

 

曾根は、「米國輪船」に乗りこみ、山東半島の東北部に位置し、対岸の大連と並んで渤海湾を扼する位置に在る煙台に向かう。その船中は「乘客ハ盡ク豚尾人ニシテ早ク已ニ其ノ居處ヲ占メ我輩ヲシテ坐處無カラシメタリ因リテ(同行者の)松氏ハ甲板ニ臥シ余ハ強テ接居シタリシガ豚尾人等ノ鴉片烟ニ咽ヒ終宵眠ヲ就サズ」であった。

 

ここでいう「豚尾」は弁髪、「豚尾人」は中国人を指すわけだが、大部分は出稼ぎ先の満州から戻る労働者と考えるべきだ。これまた「闖関東」――満州への漢族大移動という現象の一環である。それにしても「鴉片烟ニ咽ヒ終宵眠ヲ就サズ」とは、アヘン戦争から35年が過ぎようとしているにも関わらず、「豚尾人」のアヘン好みは一向に治まりそうにない。

 

第2次アヘン戦争での敗戦から清朝は李鴻章に命じて煙台の防備を固めた。それゆえ、当然のように曾根の「探視」は詳細を極めるが、再び天津に戻り、「英領事」に大孤山一帯への踏査が叶わなかった事情を報告している。なにはともあれ「英領事」なのか。

 

この頃、一帯では「過月ヨリ一點ノ雨無ク」、「熱氣晝夜ノ別無」い情況で、「過日來土人炎毒ノ爲メ死スル者一日中ニ三四十ナリト」。また「在北京陸軍士官長瀬某」からの手紙には、北京の「炎熱常ナラズ土人ノ死スル者毎日七百人ヨリ八百人ニ至ル故ニ門ヲ出レバ必ズ路上ニ斃人ヲ見ルト」と書かれていた。

 

じつは民間有志が私財を出し合い組織した善堂と呼ばれる慈善団体が、郊外に大きな穴を掘り緊急共同墓地とし、大量の死体を埋葬した。これを「万人坑」と呼ぶのだ。《QED》