【知道中国 1208回】                       一五・二・念八

――「右顧左眄頭ヲ垂レ糞ヲ尋ヌ糞山溺海・・・」(曾根7)

曾根俊虎『北支那紀行』(出版所不詳 明治八・九年)

それにしても、である。高杉が上海での中国人との交情を「海外に知己を得るは、殆ど夢の如し」と感動的に綴ってから、曾根が「手ヲ握リ交ヲ論ズルノ好人物無シ」と吐き捨てるように記すまで、13年ほどの時間しか経てはいない。

 

同じ中国人を相手にしながら、正反対とでもいってもよさそうに違った感情を抱いてしまった原因はなんなのか。

 

外国に向って開かれた近代的国際港湾都市・上海に対するに旧態依然たる北支那、高度な内容の筆談を交わせる文人に対するに古典文芸への素養薄き地方役人やら商人、さらには双方が共に国難に置かれていた時代に対し一方は近代化への道に突き進み、一方は亡国への道をトボトボと――高杉と曾根とを取り囲んだ彼我の情況の激変が、「海外に知己を得るは、殆ど夢の如し」と「手ヲ握リ交ヲ論ズルノ好人物無シ」との落差につながった。であればこそ、その後の日中両国の関係を考えた時、文久二(1862)年から明治8(1875)年までの時の経過が重い意味を持っているようにも思える。あるいは文久二年の上海において、西欧列強の強欲の牙に危機感を抱いた双方の優れた才能が幸運にも行き会い、互いが互いを考えることのできた“奇跡の一瞬”だったようにも思える。

 

曾根の旅を続ける。

 

奉天から営口に戻った曾根は、朝鮮国境に近く馬賊が出没を繰り返す大孤山一帯への踏査の旅を英国領事に、次いで「佛教師」に相談した。すると「佛教師」が大孤山を越えた朝鮮に近いところに住むという知り合いの「同國ノ教師」を紹介してくれる。「同國ノ教師」というからには同じくフランス人だろうが、その人物は「北支那ニ在ルヿ二十年各地ニ遊バザル處無ク語音ニ通ジ地理ニ明カニ今年六十二歳」とのこと。現在ならいざ知らず、当時の「六十二歳」といえば相当に高齢だったはずだから、単なる物好きで辺境の地に20年も住んでいたとも思えない。「遊バザル處無ク語音ニ通ジ地理ニ明カ」というからには、やはり常識的には情報関係の任務を帯びていたと考えられるのだが。

 

曾根の出発を聞きつけて、今度は英国領事の友人らしい「『スウエッテ』ノ人『ショールンド』ト云フ者」が「同伴ヲ請フ」てきた。「スウエッテ」とはスウエーデンを指すのか。それにしても、曾根の行く先行く先には必ずといっていいほどに一癖も二癖もありそうな人物が待ち構えているが、それは偶然ではなく、植民地争奪の大競争という時代の最前線で起こるべくして起こる虚々実々の駆け引きの一端だったと見るべきだろう。

 

曾根は営口の衙門(やくしょ)に奉天往復旅行の「路票」を返却し、新たに大孤山一帯行きの「護照(パスポート)」の交付を要求するが、役人は「是ヨリ東方盗賊多ク道路亦険隘行クヿ無キニ若カズ」と旅行中止を求めて来た。そこで曾根は、「弟已ニ雲遊スルヿ歷年艱苦亦備サニ甞ム盗賊ノ難行路ノ険ノ如キハ聊カ顧愛スルニ足ラス」。私は怪しいものでなく、大孤山は雄大で見るべきものがあるらしいから「偏ニ行看ヲ要スル耳」と説得を繰り返す。数々の旅行の経験からすれば盗賊も悪路も苦になりません。なんとしても行かせてください、と申し込んだことになる。だが先方は頑として聞き入れない。

 

翌日、再び衙門に出向くと、「兩國条約書ニ兩國人民互ニ有賊ノ地方ニ到ルヲ許スヿ無キ」との条文を示して「護照」の給付を断固として拒否する。曾根は自分は一介の書生であり、「東方海岸ノ地風景絶美古迹亦多キヲ聞ク故」の物見遊山であって、清国役人のあたなには迷惑を掛けないからと強硬に申し入れるが、結局はムダだった。そこで「『スウエッテ』ノ人『ショールンド』と云フ者」と共に、「大ニ失望シタリ」である。

 

その夜の海岸で「恰モ猫狗ノ死屍」のように打ち捨てられた撲殺死体を目にした。《QED》