【知道中国 1207回】                       一五・二・念六

――「右顧左眄頭ヲ垂レ糞ヲ尋ヌ糞山溺海・・・」(曾根6)

曾根俊虎『北支那紀行』(出版所不詳 明治八・九年)

環境劣悪な旅館を後に、営口の英領事の紹介で「英商『クライアト』氏ノ宅ニ転居」する。この人物は、「此地ニ在ルヿ前後十二年ニシテ支那ニ知己多ク説話亦支那人ト一般ナリ此邊地方ノ地理、人情、物産等ノ物ヲ問フニ甚ダ悉セリ」とのこと。そこに英商を訪ねてやって来たプロシャ人は、「前月ヨリ北地ニ遊ヒ吉林地方ヨリ魯國ノ界境ニ到リ亦馬賊ノ情勢ヲ探偵シ四五日前ニ茲ニ來着シタル者」だった。また曾根は「佛國敎師『ボヲィァ』氏」から目的地の1つである盛京(奉天)地方の事情を聴き取ると同時に、奉天で教師をしている友人を紹介されたというのだ。

 

曾根が対した3人の西洋人の行状から類推するなら、イギリスとプロシャとフランスの3国から送り込まれた要員だろう。彼らは腰を落ち着け現地社会に溶け込み、長い時間をかけて満州からロシア国境にかけての広大な地域を探査していたということが想像できる。もちろん目的は、当時の先進諸国間で行われた熾烈な植民地争奪ゲームに勝利することだったに違いない。つまり曾根が出会った「英商『クライアト』氏」、プロシャ人、そして「佛國敎師『ボヲィァ』氏」(おそらく奉天在住の教師も)は、満州を求める西欧諸国の先兵だったはずだ。こうみてくると、満州に関する限り、どうやら日本は“後発国”だったことを認めざるをえない。これが帝国主義の時代が持つ冷厳なる真実だと思える。

 

やがて奉天へ。ここでは「佛國敎師『ボヲィァ』氏」の紹介してくれた「神父ニ面會シ地理産物兵備壯觀等ノ有無ヲ問」うた。その後、数日を掛けて奉天市街、郊外を時に馬に跨り徹底踏査している。

 

某日、雨と川の増水に阻まれ、当初の目的だった清国守備兵と馬賊との戦闘跡の視察を断念し、村の旅館と思われる「村舎」で休息する。「舎ノ弊陋亦甚シク黑飯ト黄瓜ノ外他ニ食フ可キ者無ク晝ハ蒼蠅ノ弄トナリ夜間ハ毒蚊ノ餌トナリヌ」と。

 

翌日、ともかくも雨が止んだので道を急ぐが、「濁流滾々橋落チ岸崩ル」といった情況が続く。なんとか次に宿に辿り着くが「時ニ店主告テ曰ク近頃夜來賊徒頗ル多シ願クハ少ク留意セヨト」。そこで同行者と「笑ヒ刀ヲ抱テ寢ニ就ク」のであった

かくて曾根は「支那陸行ノ難キヿ」を次のように総括している。

 

「夜ハ盗賊ヲ慮リ晝ハ路上ニ困ミ飢ヲ療セントスレバ食物多油ノ臭アリ夜來枕ニ就ケハ抗上熱シテ眠ルヲ得ズ房室腌■ニシテ汚氣健康ヲ害ス加フルニ車夫ノ狡店主ノ猾實ニ厭フ可ク亦惡ム可シ然リ而シテ懷ヲ豁カニシテ情ヲ放ツノ好山水無ク手ヲ握リ交ヲ論ズルノ好人物無シ是ヲ以テ僅々數句ノ間恰モ數月ヲ經ルノ思ヒヲ爲セリ然リト雖モ苦ヲ甞メ艱ヲ經竜喉ヲ窺ヒ虎穴ヲ探ルハ天ノ我ニ賦與セル職分ナレバ毫モ辞セザル所ニシテ只後來ノ變ヲ待チ積蓄多年ノ胸畧ヲ試ンヲ要スル而己」(なお、文中■に書かかれた漢字は月偏に賛)

 

――ともかくも内陸旅行は物騒で、危険だ。ロクな食べ物はなく、部屋のオンドルは熱すぎて安眠できず、部屋は汚く不健康。車夫も旅館店主も狡猾で安心できない。ホッと心伸びやかに和ませてくれるような自然など見当たらない。胸襟を開いて語り合える好人物には出会えないから、ともかくも中国人と話をするのが億劫だ。だが、困難に耐え清国の死命を制するような情況を探り清朝帝室の内情を見極めることが自分の使命であればこそ、前途に何が待ち構えていようとも前進する。「後來ノ變」を期待して、これまで心に期して来た「畧」を試すだけだ――

 

「後來ノ變」は出兵、「畧」は策謀とも読み取れるが、今は敢えて「後來ノ變」「畧」のままにしておく。それにしても、上海で胸襟を開いて語り合い別れを惜しんだ千歳丸一行が「手ヲ握リ交ヲ論ズルノ好人物無シ」の行を目にしたなら、はて、どう思うか。《QED》