【知道中国 1206回】                       一五・二・念三

――「右顧左眄頭ヲ垂レ糞ヲ尋ヌ糞山溺海・・・」(曾根5)

曾根俊虎『北支那紀行』(出版所不詳 明治八・九年)

旅行の主目的は兵要地誌作りと思われるだけあって、曾根は目に入る地形、自然環境、集落と集落の間の距離、道路や河川の情況、天気を冷静に観察し、各地に点在する兵営の内実を兵士の数や武器の種類などで類推しながら、じつに要領よく記録している。同時に、草深い田舎やら山村での日常生活の一端をも書き留めることを忘れてはいない。

 

たとえば、辺鄙な田舎のみすぼらしい旅館に泊まったところ、不幸ニシテ支那人ト同室ナリシガ鴉煙ノ毒氣ニ壓セラレ終宵睫ヲ交ユルヿ能ハズ」と。曾根の旅行はアヘン戦争敗北から30数年後の明治8(1875)年である。にもかかわらず(いや、だからこそかも知れないが)、辺鄙な田舎の旅館でもアヘンの吸引が行なわれている。この現実を見せつけられれば、全土が「鴉煙ノ毒氣」に「壓」されていると類推したとしても、強ち間違いとはいえないだろう。

 

さらに歩を北に進め遼東地方に至ると悪路の連続となる。雨の後など、馬は泥の中に埋まって「殆ンド死ス」状態であり、「車夫ハ常ニ鋤ヲ携ヘ補道ニ供シ」、長距離旅行者は「常ニ短鎗ヲ持シテ盗患ヲ防」がなければならない。道路事情は最悪であるうえに、馬賊の襲撃にも備えなければならない。その馬賊だが、一般に「賊勢ハ頗ル多キガ如クサレドモ其詳ヲ得ズ。且ツ軍ニ規律無ケレバ兵ニ名義無ケレバ大事ヲ爲スヿ能ハザル可シ」。

 

道路事情は劣悪。馬賊は横行するが、実態が不明。そのうえ規律の乱れた軍隊だから治安維持は覚束ない。ならば旅行はおろか日常生活すら不安だらけだ。

 

やがて、当時の満州最大の港湾施設を擁した営口に到着する。

 

じつは1858年の天津条約で牛荘が条約港となったが遼河の土砂が堆積し使用不能になり、牛荘の機能を移した営口が満州特産の大豆積出港として栄えた。だが80年代に入ると、清朝が海防上の措置として営口より東部の大連湾北部に砲台を建設し、後にロシアが日清戦争後の三国干渉で租借し要塞を設け、東清鉄道の終点としたことから、国際貿易港としての機能を増大させ、以後、営口は大連に取って代わられ、国際貿易港から沿岸貿易港へと地位を転落させた。どうやら曾根の営口訪問は、盛んだった時期の末期に当たるようだ。

 

街に入る城門の「門上首級ヲ梟シタル者アリ血未ダ乾カズ然レドモ刑名札ヲ建テザルハ支那ノ風習ナレバ何等ノ罪状ナルヤ知リ難シ」と。おそらく馬賊の首級だろう。

 

営口の衙門(やくしょ)に出向いて、これから先の旅行に必要な通行許可証である「路票」の交付を申請するが、担当者は曾根を怪しみ恐れている。話をしてもはっきりしない。そこで筆談に切り替えたが、「筆頭慄震シテ能ク書スルヿ能ワズ」というから、手がブルブル震えて字にならない。何とか読めたところで曾根が、自分は「漫遊ヲ好ム」書生で山東省の孔子廟に詣で、山海関を経て、これから盛京(奉天)地方に向かいたいというと、やっと相手は落ち着いて「安心ノ色有リ」。やがて旅館に。ともかく汚い。

 

「臭氣多キガ故蒼蠅ノ多キ譬フルニ物無ク殊ニ我寓房ハ陋ナレバ其多キ亦甚タシク衣服器物ニ至ル迄集蠅ノ爲メニ其色ヲミザルニ至ル況ヤ其人ニ附クヤ夜間ト雖モ去ラズ睡眠ヲ礙ケ食スルニ當リヲ注意セザレバ蒼蠅ヲ并嚙スルニ至ル室亦陋ニシテ且ツ暗ク一點ノ微風モ通ズルヿ能ハズ食物ハ總テ多油ニシテ食了スル能ハズ水ノ惡キ又言フベカラズ實ニ健康ニ害アルヿヲ覺ヘリ」

衣服や器物の色も判らない。夜は体に纏わりついて眠れない。食べ物にも集ったままだから一緒に口に入れかねない。じつに凄まじいハエの数だ。部屋は狭く暗く換気が悪い。そのうえ食べ物は油っ気が多く、水は悪い――対外開放された営口ですら、かくも劣悪な生活環境である。蒼蠅、多油、悪水に乾糞・・・この先、何が飛び出すやら。《QED》