【知道中国 1205回】                       一五・二・念一

――「右顧左眄頭ヲ垂レ糞ヲ尋ヌ糞山溺海・・・」(曾根4)

曾根俊虎『北支那紀行』(出版所不詳 明治八・九年)

なぜ「支那人ノ此ノ關ヲ通過スル時ハ門吏呵シテ其名姓、住居、年齡ヲ問フ此時行人必ズ答ルニ滿州語ヲ以テセザレハ過ルヿヲ許ルサ」ないことが「即チ山海關ノ定則」となったのか。ここで、極く大雑把に満州と漢族の関係を振り返っておくことも必要だと思う。

 

清朝は、17世紀半ばに北京に都を定めた直後、荒地開墾を希望する漢族の山海関からの満州入りを許可した。すると満州に新天地を求めた漢族が、農業植民を目的に続々と満州入りする。ここで注目しておきたいのが、満州に隣接する内モンゴル東部でも牧野の農地化、つまり農業が遊牧を侵し始めたこと。すでにこの時期、漢族による遊牧文化侵食、いいかえるならモンゴル遊牧民の悲劇が始まっていたということだ。

 

漢族は主に同郷者が集団で満州に向かった。彼らは窩棚と呼ばれる掘っ立て小屋を建て定住に向け土地の開墾に着手する。コウリャン、アワ、ソバなどが栽培されるようなると、やがて故郷を同じくする同姓者を呼び寄せて集団居住する村落が生まれる。海外の華僑社会でそうだったように、満州でも生き抜くための拠り所は同郷・同姓の縁だった。ここで注目すべきは、満州入りした漢族は農民だけではなかった、ということ。簡単いうなら、中国社会の仕組みそのものを満州に持ち込んだのである。農業移民の成功に誘われ手工業やら商業機関が持ち込まれ、都市生活も始まる。満州の漢化、つまり漢族社会のネットワークが知らず覚らずのうちに満州にまで広がっていたわけだ。

 

かくて1740年代になると、清朝は封禁政策に着手し、山海関での漢族移民の出入りを取り締まることになる。だが、これが徹底されない。一度手に入れた土地(=財産)をおいそれと手放すわけがない。だから満州から出ていかない。加えて豊かに暮らせることを知ったなら、不法侵入は当たり前となる。凶作時の超法規的処置として一時移住・滞在が許可されるや、居座ったうえに家族・親族・友人までも呼び寄せる。まったくもって油断も隙もあったものではない。

 

よくよく考えるまでも内が、この現象は1978年末に開放政策に踏み切って以降の中国人の海外移住と同じだろう。漢族は中国本土以外に飛び出せる機会があるなら、違法・合法の別はない。いつだって飛び出す。やがて異邦に家族・親族・友人までも招き寄せ、周囲の迷惑を顧みず自分たちの生活方式・習慣を貫こうとする。摩擦が起きても平気の平左。郷に入っても郷に従わない。1949年の建国を機に、毛沢東は対外閉鎖を断行し、こういった厄介な人々を国の中に閉じ込めておいてくれた。だが、鄧小平は1978年に開放政策に踏み切り、彼らを海外に向けて解き放った。さらにさらに2002年、江沢民は「走出去」を獅子吼し、海の外に飛び出せと中国人と企業の尻を引っ叩いた。毛沢東、鄧小平、江沢民と並べたら、いま再評価すべき指導者は誰であるか、もはや論を待たないだろう。

 

さて満州に戻るが、満州近接省を含む中国全土の人口爆発、漢族の経済活動の活発化、満州と中国本土の政治・行政上の一体化などが重なり、嘉慶年間(1796年~1820年)を過ぎる頃には、漢族は満州に新天地を求め奔流となって雪崩れ込むようになった。『ワイルドマオ・スワン』『マオ』、最近では『西太后』で知られるユン・チアンの曾祖父もまた、この時機、好機を求めて故郷を離れ長城を越えて満州に渡った1人なのだ。ユン・チアン一族は、後に北京に移り、四川共産党幹部に就いた父親に従って四川に移る。現在、長女は中国に残り、彼女と3人の弟はそれぞれがイギリスとフランスに住む。1世紀半程を経て、一族は中国⇒満州⇒中国(北京⇒四川)⇒イギリス・フランスと移り住む。これが漢族の生き方(=文化)の一端であることを、改めて注視する必要があるはずだ。

 

曾根が山海関で目にした光景こそ、漢族化される満州の歴史の一齣なのだ。《QED》