【知道中国 1204回】                       一五・二・仲九

――「右顧左眄頭ヲ垂レ糞ヲ尋ヌ糞山溺海・・・」(曾根3)

曾根俊虎『北支那紀行』(出版所不詳 明治八・九年)

天津を囲む城壁の東西南北に設けられた4つの城門の上に立った曾根が記した「四門ノ樓上ハ盡ク脱糞處ニ變シ壁上ハ過半乾糞場ト爲リヌ」の行に読み進んだ時、10数年前、景勝地・桂林の郊外でバスターミナルの公衆便所に足を踏み入れた時の、まさに慄然の2文字でしか表現できそうにない光景が鮮やかに蘇えってきた。そこでも床は「盡ク脱糞處ニ變シ」ていた。もっとも曾根の目にした天津の「四門ノ楼上」は「過半乾糞場」だったからまだしも、桂林郊外のそこには、「乾糞」になる手前の半ナマ、あるいは出来立てホヤホヤの正真正銘のナマが溢れていたからタマラナイ。床全体がヌルヌルで、まさに「糞山溺海」といった惨状。とにもかくにも、その臭さは目に痛いほどに強烈に沁みた。

 

曾根は城壁の上だけでなく、基層部分にも目を向ける。そこが低地になっているから、降った雨が溜まり易く、一向に引く気配がない。そこで雨水が「城壁ノ下ニ滿集シ炎天ニ至レバ各處ノ汚溝ヨリ臭氣沸起シ熱氣流行シ數多ノ人命ヲ亡フヲ致ス」。公衆衛生などという考えは、一向に考慮されていそうにない。いや、誰もが生きるに懸命で、そんなことに構ってはいられなかった、とも考えられる。いやいや不具合は不具合のまま、壊れたら壊れたで、そのままでホッタラカシ。荒れるがままに任せるということ。いったい補修する予算がないのか。それとも最初から修理・修繕にまで考えが及ばないのか。

 

天津は第2次アヘン戦争によって開放され、「英、佛、米、魯、普等ノ領事館」が設けられているが、英仏両国は戦勝に乗じて一等地を広く押さえ、米露両国などは「後部不便ノ地僅々ヲ有スル」しかなかった。南側の適地は外国人に押さえられている故に、北側の「路上狹小ニシテ汚穢甚ダシ」い北側に「廣東人ト土人ト雜居」している。なぜ北方の天津に南方の広東人が住んでいるのか。おそらく英国人などが、商売のために香港辺りから広東人を雇って連れてきたのだろう。かくて南北に遠く離れた香港と天津とが海上航路で結ばれ、カネはモノを呼び、モノはカネを招き、カネの匂い誘われヒトが集まることになる。

 

天津市街の観察を終え、郊外の堡塁、砲台、軍営、軍船碇泊地などの軍事施設、製鉄所を観察した後、いよいよ「北支那」に向って歩きだす。道路事情、沿道の集落から集落までの距離、目に入る周辺の自然環境など事細かに記しているが、宿舎は例外なく「陋亦甚ダシ」。時に「水ヲ要シテ其盛リ來ルヲ見レハ色青黄ニシテ臭氣アリ飯ヲ炊クモ亦此水ヲ以テスルヤ飯亦青黄色ヲ帶ヒテ臭氣鼻ヲ穿チ一箸モ下スニ堪ヘズ」といった有様だ。水も青黄色く、飯も青黄色。そのうえ臭くて堪らない。こんなものを日頃から口にしている中国人に同情すべきか。それとも、こんなものを口にしても何ともない中国人の内臓に驚嘆すべきか。やはり後者だろうに。ならば一時期話題になった“段ボール入り肉まん”にしても、アリじゃないですかねえ。

 

曾根は、やがて万里の長城の東端の関門であり、「天下第一関」で知られる山海関に到着する。山海関の城門の上に立って周囲を眺めれば、「千嶺万峯恰モ列齒ノ如ク逶迤トシテ其幾百里ナルヲ知ラズ望遠鏡ヲ以テ諦視スレバ一嶺モ長城ノ見ヘザルハ無ク」と、山また山を越えてうねうねと続く長城の様に見入る。山海関の手前が漢族の住む関内。万里の長城を背に東に向う。山海関の東だから、関東。その先には肥沃な満州の大平野が広がる。

 

当時、主に山東省や河南省に住む漢族の多くは貧しさとひもじさから抜け出すべく、新天地を求めて山海関を越え、雪崩を打って関東に向かった。「闖関東」と形容される漢族の満州への大移動の一端を、曾根は「支那人ノ此ノ關ヲ通過スル時ハ門吏呵シテ其名姓、住居、年齡ヲ問フ此時行人必ズ答ルニ滿州語ヲ以テセザレハ過ルヿヲ許ルサス。此レ即チ山海關ノ定則ナリ」と記す。やがて満州族の故地は、漢族に埋め尽くされてしまう。《QED》