【知道中国 1203回】                       一五・二・仲七

――「右顧左眄頭ヲ垂レ糞ヲ尋ヌ糞山溺海・・・」(曾根2)

曾根俊虎『北支那紀行』(出版所不詳 明治八・九年)

曾根の目に映った天津の人々の生活ぶりのうち、興味深い記述を拾っておくと、

 

人情は「即チ西人ノ歷史ニ支那人ハ能ク詐僞ヲ巧ニスト載セシ就中當處ノ人情極メテ狡猾ニシテ義理ノ何物タルヲ知ラズ加フルニ一千八百六十年英、佛ノ戰敗ニ會シ活計極メテ窮困ナレバ只管自己ヲ利スルノ短策ヲ知ル而己」。

 

風俗は「廉恥殆ンド地ヲ拂フ」といった状態だが、それでも「平民ノ貴人ニ禮シ童子ノ先生長者ニ禮スルヤ必ス右膝ヲ屈シ答者亦拱手荅禮スルノ法聊カ存セリ」。

 

食事は一日2食。「肉ハ即チ牛ヲ以テ下賤ノ食トシ羊、豕、鴨、鶏ヲ以テ一等トシ魚、猫、犬、馬ヲ以テ其次ト爲ス」。なんと牛は下賎の食べ物だった。また「富貴者ノ外ハ居室ニ定厠無ク其望ムニ任ス是ニ於テカ路傍或ハ屋間ニ徘徊シ拾糞ヲ以テ生ヲ營ム者少ナカラズ」。

 

銭湯はあるが、値段が安いと「群浴ノ大房ニシテ恰モ其形チ我温泉房ノ如シ然レトモ穢醜ニシテ入ルヿ能ハズ」。金持ちは煉瓦で、それ以下は一般に土泥または蘆草で作られた家に住むが、重税を逃れるために貴賤の別なく「矮屋小室」であり、窓は小さいうえに少ないから部屋の換気が悪く、「人身ノ健康ヲ害ス」。

 

葬式については、「送葬ノ時ニハ必ズ三四ノ泣娘ヲ雇ヒ路上ニ泣哭セシム然リ而乄中人以下ハ棺槨ヲ埋ルヿ無ク屋後或ハ城壁ノ下ニ置クヲ以テ豚犬ノ溺糞ニ汚サレ其畦郊ノ邊ニ在ㇽ者ハ棺朽チ白骨出ㇽモ之ヲ蔵スルヿ無シ」。

 

鴉片は「盛ンナルヿ上海ヨリ甚ダシ」。抽(吸う)の次は嫖(買う)となる。娼妓には、広東からやって来て外国人居住区で「外國人ノ睡ニ伴」う者と、天津の北郊に住んで「春ヲ賣」る者がいる。「此地男色ヲ鬻ク十一二歳ヨリ十六七歳ニ至ル是レ最モ好看ニシテ其美姿〔中略〕娼妓ノ上ニ出ル者有リ故ニ官員ノ男色ヲ弄スル者最モ多シ」。その官員、今風にいうなら幹部だが、今も昔も権勢を恣に弄んでいる。そうか、そうだったのか。納得デス。

 

人身売買は日常化しているようで、「童男幼女其終身ヲ買斷スべシ即チ其歳ノ多少ト容姿ノ好惡ニ由テ等差有レドモ概畧十兩ヲ投ズレは五六歳以下ノ子ヲ買フ可シ亦六百金ヨリ三百五十金餘ヲ投セバ」、何やら最上級の「美娘ヲ買フニ足ル」とか。

 

天津の人口は1872(明治5)年にイギリス人が調査したところでは40万人とのこと。

 

天津城外の市街地だが、「西人ノ諺ニ四億萬人ノ帝城北京ハ汚穢ヲ以テ建築セリトノ嘆語アリ帝城猶ホ是ノ如シ況ヤ天津城外ニ於イテヲヤ」とは、さぞや凄まじいばかりの、想像を絶する汚さだろう。「路上ニ臨メハ臭惡ノ氣俄然トシテ鼻ヲ穿チ汚穢ノ堆キ葷然トシテ眼ヲ病ム」。「葷然トシテ眼ヲ病ム」とは穏やかではない。道路事情は最悪。街路は狭く往来のままならない。デコボコの悪路のうえに車にはスプリングがついていないから、乘り慣れない者は「頭ヲ傷クヲ免レズ」とは、どうやら車に乗るのも命懸け。

 

さらにさらに「病犬曜豚ハ行人ニ混シテ徘徊シ一犬偶々西裝ノ者ヲ見テ吠ルトキハ萬犬狺々タルヲ致ス」。「病犬」に纏わりつかれ「狺々(キャンキャン、ワンワン)」と吠えられたら堪ったものではないが、そのうえに「拾糞人ハ汚身ニ弊衣ヲ着ケ(竹籠を背負って)爭テ路上或ハ橋邊ニ出テ右顧左眄頭ヲ垂レ糞ヲ尋ヌ糞山溺海ハ北京ノ大サニ讓レドモ城ノ内外各處ニ糞場有リ行人ノ脱糞ヲ要スル者ハ該處ニ至リ烟ヲ吹キ談話シ悠然トシテ脱了ス」とは、凄まじい限りの汚さだ。垂・吸・話の動作を一度に済ますとは妙技・・・脱帽。

 

かてて加えて「乞人アリ裸体ナル有リ單衣ナル有リ滿身ノ汚垢墨ノ如ク橋頭或ハ廣路ニ横臥シ徃來ノ客ニ注目シ有錢客ト認ムルトキハ衆乞群蜂ノ如ク尾シ來リ老爺ト叫ヒ錢ヲ乞ヒ之ヲ得テ始テ止ム」と。

 

やはりキーワードは「糞山溺海」の4文字か!?・・・この先が憂鬱、いや愉しみだ。《QED》