【知道中国 1201回】                       一五・二・仲三

――「威嚇もなければ愛国的憤怒もない」

『支那旅行日記』(海老原 正雄訳、慶応書房 昭和18年)

 

千歳丸の上海行きが文久二(1862)年。次に扱う予定の『北支那紀行』の前篇が出版されたのが明治8(1875)年で後編は明治9(1876)年。この10数年の間、日本は激動の幕末を経て明治維新となり近代国家に向けて歩みだす。一方の清国は、同治帝から光緒帝へと皇帝が代わったものの、相変わらず続く西欧列強の侵出競争を前に、ジリ貧の道を辿る。

 

千歳丸から曾根までの10余年の中国の情況が、どのように日本人の目に映ったかを知りたいと思い、この間の中国旅行記を探してみた。誰か中国に行って記録を残しておいてもよさそうだが、目下のところ手当たりがない。どうやら後日を待つしかなさそうだ。

 

そこで、千歳丸と曾根の間の空白を埋める一方、明治の日本人による中国紀行を読むうえで参考にもなるかと思い、ドイツの地理学者・探検家で近代的地形学を創始したといわれるフェルディナント・フォン・リヒトホーフェン男爵(1833年~1905年)の見た中国を、簡単に紹介しておきたい。彼はアメリカから日本を経て中国に渡る。両国共に2回目の旅だった。日本が戊辰戦争に揺れていた頃に北京に到着している。

 

1868(明治元年)9月30日の日記に、「支那人たちは、彼ら自身には出入を禁ぜられた首都の城壁(紫禁城)の上を外国人が大手を振って歩き廻るのを、無関心に眺めているが、この事程、支那国民の道徳的低さ、あらゆる自己感情の完全な欠如とを明瞭に物語るものはないようだ。城壁から町を見渡す外国人達を、彼らは屢々寄り集まって物珍しそうに見上げているが、しかしその眺め方は極善良なもので、威嚇もなければ愛国的憤怒もない」と綴る一方、「支那人よりも温和な性格にも拘らず、日本人ははるかに好戦的であり、もっとも自負心を持っている。彼らなら、外国人のかくの如き特権は決して黙認できないであろう」と記している。

 

リヒトホーフェンの考えに従うなら、「支那人よりも温和な性格」だが、「はるかに好戦的で」「もっとも自負心を持」つ明治の日本人が相手にする中国人は、「道徳的低さ」の自覚すら持ち合わせず、「あらゆる自己感情の完全な欠如」が認められ、「威嚇もなければ愛国的憤怒もない」ということになる。

 

リヒトホーフェンは上海から故郷の両親宛の手紙(日付は1869=明治2年3月1日)に、こうも記している。

 

「支那人の性格は我々にとっては非常に特異なものなので、それを完全に理解することは誰にも出来ないです。実に驚くべきは、ヨーロッパ人と支那人が互いに無関心でいることです。私は、両者の間に愛着の関係が生まれている様な場合に一度も出会ったことがありません。主人と犬との間に生まれるような関係さえ見られないのです」

 

「香港や上海のような都会では、彼らは(アヘン戦争以来)大凡三十年間も外人と共に暮らして来たにもかかわらず、その生活は殆ど何等の変化も受けませんでした。彼等にあっては、改革は内から起こらなければなりません。それは外部からは来ないのです」

 

「それはともかく、支那人たちが、私の述べたような状態にあるのは、われわれにとっては有利なことです。何故なら、もし突然、彼らの知力に相応する程度の教養と精神力を持つに至るならば、支那人達はその厖大な人口によって他の諸外国を圧倒することができるでしょうから。今のところ彼らは貧しい生活に甘んじて、我々に茶と絹を供給するためにのみ存在しているように思われます」

 

明治の時代、日本人が相手にした中国人は、その原因はどうあれ、「貧しい生活に甘んじ」るしかなかった。さて彼らは、いつの時代に、「彼らの知力に相応する程度の教養と精神力を持つに至る」のか。明治日本人の中国への踏査・探索の旅の始まり、始まり~ッ。《QED》