【知道中国 1198回】                       一五・二・初七

――「弟姓源、名春風、通稱高杉晋作、讀書好武」(高杉4)

高杉晋作「遊淸五錄」(『高杉晋作全集』昭和四十九年 新人物往来社)

 

高杉は上海を「支那南邊の海隅僻地」と記すが、アヘン戦争の結果である南京条約で開港される以前の時点に立つなら、確かに「海隅僻地」といえないこともない。だが地理的にいうなら、上海は「支那南邊」ではない。北のロシア国境から南のヴェトナム国境までの、国土の広さに較べ長いとはいえない海岸線だが、その海岸線の中央部に上海は位置している。高杉のみならず当時の日本では、どうやら一般的に上海は「支那南邊」と見做されていたようが、それは誤りというべきだ。

 

たとえば上海を「支那南邊の海隅僻地」とするなら、早くも唐代にインド・イスラム世界と海上交易で結ばれて以来、国際交易都市として栄えて来た広州は、どう表現すべきか。上海と広州の間に位置する福建の泉州や漳州も古代から海外との交易拠点だったことを考えれば、やはり上海は「支那南邊の海隅僻地」ではないだろう。あるいは当時の日本は、地理的に長江辺りを南限に中国を認識していた。いいかえるなら長江の南の広大な領域は、当時の日本人が想定する「支那」には含まれてはいなかったとも想定できる。

 

地政学的に考えるなら、中国という世界は長江の南にも、内陸部深奥部のその先のユーラシア中央部にも、東南アジア大陸部にも陸続きで繋がっていることを知るべきだ。やや突飛な表現だが、“伸縮自在”なのだ。この地理感覚の違いやズレが、その後の日本の中国政策に陰に陽に影響を与え、結果として現在にまで続いているのではないか。

 

たとえば日中戦争の際、当時の軍部中枢は東部の海岸線を封鎖すれば、南京は陥落し、蔣介石政権は白旗を挙げると考えたように思える。だが、蔣介石政権はさらに奥地の重慶にまで逃げ込んだ。しかも主要官庁から大学までも移して。そこでゼロ戦警護の一式陸攻で爆撃すれば、「戦時首都」としての重慶の機能はマヒし、蔣介石政権は日本軍の軍門に下ると想定した。だが蔣介石政権は持ち堪えた。さらに西に補給路を求めたからだ。アメリカのルーズベルト政権を中心とする連合国は援助物資をインド洋からビルマに陸揚げし、陸路で中国西南内陸部の中心である昆明を経由して重慶に届けた。援蔣ルートである。

 

そこで日本軍は援蔣ルートを断つために、ビルマに派遣した部隊を雲南省の西端まで進めざるを得なかった。緒戦は勝利したものの、日本側の兵站機能は十全ではない。そのうえ昭和18(1943)年秋頃には、西南中国からビルマ、タイに広がる一帯の制空権は米空軍に奪われてしまう。かくて最前線の日本軍に待っていたのは死戦でしかなかった。

 

上海に対する高杉の地政学的認識の欠陥から滇緬戦争(滇=雲南、滇=ビルマ)にまで話を進めるのは、やはり些か強引に過ぎるとも思う。いずれ、この問題は別の機会に詳しく考えてみたいが、少なくとも日本人の中国に対する地理的な常識や感覚を改める必要性を指摘しておきたい。国境を閉じていた毛沢東の時代ならまだしも、国境の外に向かってヒトもモノもカネも「走出去(飛び出)」す時代となったのだから。

 

話を高杉に戻す。

 

上海は「甞て英夷に奪はれし地」であり、確かに「津港繁盛」してはいるが、それは「皆外國人商船多き故」であり、「城外城裏も、皆外國人の商館多きか故」である。「支那人の居所を見るに、多くは貧者にて、其不潔なること難道(いいがたし)」。だが「外國人の商館に役せられ居る者」、つまり外国商人に雇われている買弁商人だけは豊かに暮らしている。「少しく學力有り、有志者者、皆北京邊江去」ってしまった。どうやら学力や志ある者は北京辺りに去ってしまい、上海に残る中国人は外国商人のために働く少数の豊かな買弁商人と大多数の「日雇非人」だけということになる。だからこそ上海は、外国商人に占領されたも同然であり、「大英屬國と謂ふ而(て)も好き譯なり」という結論になるわけだ。《QED》