【知道中国 1196回】                       一五・二・初三

――「弟姓源、名春風、通稱高杉晋作、讀書好武」(高杉2)

高杉晋作「遊淸五錄」(『高杉晋作全集』昭和四十九年 新人物往来社)

 

4月29日の早暁、「號令一聲、解纜發船」。船は長崎を出港し、西南に針路を取り上海に向かった。やがて長崎を去る「一百里」辺りで暴風雨に巻き込まれる。荷物はひっくり返り、誰もが船酔いに悩み、「臥體殆如死人」。ただ高杉は病気が癒えてはなかったが、船酔いはしなかった。夜半になって風が静まったころから、「諸子大喜」。

 

船中の出来事として、「此日(5月3日)始與同船水夫才助者談、才助薩州藩五代才介也、變形爲水夫、入此船云、才介向者訪予於崎陽偶舎、予時在病、不得談、一見如舊知、吐露肝膽、大談志」と綴る。

 

この日、「水夫」に身を窶した薩摩の五代才助こと、維新後に大阪経済界興隆の立役者となった五代友厚(天保6=1836年~明治18=1885年)を初めて知ったわけだ。時に才助26歳。対する高杉は23歳。長崎出港前、五代は高杉を訪ねたが、病床の高杉に会えずじまいだった。船中で念願が叶い、「一見して舊知の如く、吐露肝膽を吐露し、大いに志を談じた」ことになる。(前回、上海行き当時の高杉の年齢を27歳としたが、誤りである)

 

ところで五代の「志」だが、「内情探索録」には「薩摩より、五代才介と申人千歳丸水夫と爲り、上海に罷越せしなり、五代者薩摩之蒸汽船之副将位之處を勤者之由に而、段々君命を受て當地罷越せし様子なり、追々心易成、其論を聞くに、歸國之上者、蒸汽船之修復と申立、上海邊に交易に來る心得なり、上海渡海之事開くれ者、歐羅斯、英吉利、亞米利加江も渡海相成様開くならんと云、蒸汽船買入之節之咄を聞くに、餘程有益に相成様子なり、蒸汽船買入れ之値段十二萬三千トル、日本金に直し七萬兩」と記し、「薩に二十間計之軍艦、外に運送船を求むる様子なり。蒸氣買入れ江戸江登り、夫れ上海江罷越落着之由」と書き加えた。

 

さらに千歳丸には佐賀よりも中牟田らが乗船している。なかでも中牟田は「航海術を心得、且少々英語も出來、長崎より上海迄航海航路之事閲す様子なり」。また「幕府勘定方之小吏」である山崎は日本の物産の上海での売却の可能性を探るために、上海における「日本諸物之相場、且唐物之相場を調ふる様子なり」と記し、「皆受君命渡海せしなり。由是看之、佐賀薩摩程にも手段付けぬ共も、隨分追々渡海互市之事に手を付候様子なり」と、佐賀と薩摩の両藩のみならず幕府までもが上海での貿易に積極的であることに率直な驚きを示し、かくて高杉は独断でオランダに蒸気船を注文した。快挙、暴挙、いや「果断」。

 

高杉が綴った「獨斷に而蒸氣船和蘭國江注文仕候一條」は、概略次のように説いている。

 

――「支那之衰微」した理由を考えるに、とどのつまり外敵を海の外で防ぐ道を知らなかったからだ。万里の海を遊弋可能な「軍艦運用船」や敵を自国の海岸線から「數十里之外に防くの大砲も製造」せず、さらには国防・海防の要を訴えるべく「志士」が訳した『海國圖志』も絶版といった有様だ。かくして、ただただ危難を先送りし、時代遅れの考えにしがみつき、因循姑息にして「空しく歳月を送」るばかり。太平の世に浮かれる心を断然として改めもせず、「軍艦大砲製造し、敵を敵地に防くの大策」がないからこそ、あのようにブザマに衰微してしまった。すでに「我日本」も「支那」の轍を踏みつつあるきらいがないわけではない。であればこそ「速やかに蒸氣船の如き」を購入せよ――

 

また「支那上海港ニ至リ、又彼地及北京ノ風説・形勢ヲ探索シ、我 日本ニモ速ニ速ニ攘夷ノ策ヲ爲サスンハ遂ニ支那ノ覆轍ヲ蹈ムモ計リ難シト思シナリ」と説く。

 

話は前後したが、「五月五日、天晴、風順、船馳如矢、忽至洋子江(揚子江)」。ようやく「甞支那人與英人戰爭之地」であり、「甞長髪賊與支那人戰」った上海港への投錨である。かくて「六月六日、雨、朝解纜」までの間、高杉は思う存分に上海探索を続けた。《QED》