【知道中国 1195回】                       一五・二・初一

――「弟姓源、名春風、通稱高杉晋作、讀書好武」(高杉1)

高杉晋作「遊淸五錄」(『高杉晋作全集』昭和四十九年 新人物往来社)

 

高杉晋作。生年は天保10(1839)年で、上海滞在時は27歳。帰国5年後の32歳に当たる慶応3(1867)年に没した。これ以上、敢えて記すこともないだろう。

 

『高杉晋作著作集』(堀哲三郎編 新人物往来社 昭和49年)には千歳丸での上海行き関連の著作として、「遊淸五錄序」「航海日録」「上海掩留日録」「續航海日録」「獨斷に而蒸氣船和蘭國江注文仕候一條」(以上、第一冊)「支那遊私記草稿」「航海日録」「内情探索録」「外情探索録」「支那與外國交易場所附」「長崎互市之策左之通」「外事探索録巻之貳」(以上、第二刷)などが、一括して「遊淸五錄」として収められている。

 

それぞれに見られる若干の異同を敢えて詮索することなく、専ら高杉の上海体験を追いかけることとしたい。

 

じつは千歳丸乗船時、高杉は中牟田と同じように麻疹が完癒してはいなかった。そこで一行に遅れ、夜に入ってから小舟を雇い杖にすがって乗船している。体調に構ってはいられない。上海行きという絶好の機会を逃してなるものか、といったところだろう。

 

乗船してみると幕吏と各藩出身の從者、さらに身の回りの世話をする従僕など誰もが初対面と思ったところ、聞き覚えのある声がする。よくよく見ると、昌平黌で1年間席を並べた「浪速處士伊藤軍八」だった。思わぬところで、と久闊を叙したことはいうまでもない。船内の居住環境は劣悪であり、そのうえ病気だったことから、高杉は「終夜遂不得眠也」。

 

千歳丸の上海行きについて、「幕欲渡支那爲貿易、寛永以前朱章船以来未嘗有之事、官吏皆拙于商法、因使英人及蘭人爲其介、所乘之船亦英船、船将英商ヘンリーリチヤルトソン、其餘英人十四名乘船、皆關運用之事」――上海での貿易を計画しているが、役人なんて商売が下手だから、イギリス人やオランダ人を仲介役に立てようとしている。千歳丸はイギリス船(じつは千歳丸は幕府が購入したイギリス製の木造船)であり、操船も英国商らに任せている――とする。だが高杉は千歳丸による上海行きの真相を、「内情探索録」に次のように推測する。その部分を現代風に訳してみると、

 

――幕府は上海で諸外国との貿易を掲げているが、おそらく長崎の商人どもが長崎鎮台の高橋某に賄賂を贈り、ボロ儲けしようと企んでいるのだろう。江戸からやって来た幕吏にしても、多くは高橋某の仲間で、海外出張に伴い手にすることができる高額手当を狙っているのではないか。幕吏なんぞは取引については商人や長崎の地役人に任せっきりで、何も知らない。ただ商人からの報告を鵜呑みにして記録するだけだ。商人は通訳を仲間に引き入れ、通訳は何から何まで「外夷」に相談するから、全てが相手にお見通し。かくてイギリス人とオランダ人の好き勝手のし放題ということだ――

 

さすが高杉、というべきか。以上は峯・名倉・納富・中牟田の誰も記してはいない。

 

乗船したのが4月27日。翌28日は「好晴、船中諸子云、今午後必解纜、而終日匆々、不發船(好天、同乗者は今日の午後には必ず出港するというが、終日、あたふたするばかりで出港しない)」と。そして「嗟日本人因循苟且、乏果斷、是所以招外國人之侮、可歎可愧」と続けた。

 

――日本人というヤツは、どうでもいいようなクダラナイ物事に拘泥し、いざという時に果断な行動がとれない。こんなことだから、外国人にバカにされてしまうのだ。嘆かわしく恥ずかしい限りだ――

 

文久2年から150年余が過ぎた現在、「イスラム国」の脅迫を前にして、情報の「収集と分析」を口にするばかり。高杉が現在の日本に生き返ったら、「嗟日本人因循苟且、乏果斷、是所以招外國人之侮、可歎可愧」と。呆然・憤怒・慙愧。《QED》