【知道中国 1194回】                       一五・一・三一

――「支那之衰微、押て可知候也」(中牟田7)

「上海行日記」(中村孝也『中牟田倉之助傳』大正八年 中牟田武信)

中牟田は「『乙(ヲト)』は漂流して後、上海に住めども、日本の恩義を忘れざる旨を嘗て長崎にて傳聞したりし故、面會して見たしと思ひ、訪問せり」と綴る。すでに長崎でも上海に在住する漂流民音吉が話題となっていたわけだ。

 

だが、中牟田が音吉と言葉を交わすことは叶わなかった。妻子を伴い先月上海を離れ外国に向かった。「普魯西亞(プロシャ)人」と結婚し、2人の間に子供は2男1女の3人。長男は8歳前後で、一家全員が西洋人の服装である――これがデント商会の説明だった。どうやら音吉は西洋式の生活を送りながらも、「日本の恩義を忘れ」なかったのだろう。

 

後日、中牟田が再びデント商会を訪ね音吉の行き先を問い質すと、シンガポールに行ったとのこと。音吉の弟を称する人物を訪ねたが、日本人であることを隠し、真実を聞きだすことはできなかった。

 

かりに中牟田が音吉から話を聞きだすことが出来たなら、アヘン戦争に英国軍兵士として参戦した音吉から、アヘン戦争のみならず英国事情やらデント商会のアヘン商法の一端、さらには上海での交易の実態など多くの情報や知識を得ることができただろう。音吉のシンガポール行きが少し遅く、千歳丸の上海着が少し早かったら、と思うばかり。

 

これまた某日、中牟田は高杉と夜間の散歩に出る。横濱滞在歴を持つと自ら語るアメリカ人に自宅に誘われ、大阪港開港問題について問い質された。大阪港が開かれれば直ぐにも向かいたいところだ。当地の新聞では将軍は開港の意向だが、最強硬派の水戸藩を先頭に多くの大名は開港反対の立場をとっていると伝えられるが、真相は如何に。内政上の微妙な問題であるうえに、相手のアメリカ人の氏素性も質問の狙いも判らない。そこで中牟田は答をはぐらかした。一方の高杉は、犠牲を厭わない大義のために勇猛果敢に邁進する水戸藩の動向を、西洋人が注視するのも当たり前だろう、と。

 

またまた某日、高杉と連れ立って清国軍の練兵ぶりを見学した。青竜刀やら火縄銃やら。その旧式ぶりに唖然とする。帰路に南大門を守備する知り合いの所に立ち寄り問い質すと、やはり洋式銃を使って、英仏兵の指導・支援を受け入れた場合には、太平天国軍も恐れるに足らず、と。かくて2人は、やはり中国伝統の兵術は西洋銃隊の前では全く意味をなさないことを知る。西洋諸国の圧倒的軍事力を前にしては、勇ましくはあるが攘夷の掛け声は所詮は蟷螂の斧にすぎないことを悟ったのではないか。

 

中牟田の経歴を見ると、長崎海軍伝習所を経て佐賀藩海軍方助役。維新後は海軍に奉職し、草創期の海軍兵学校教育の基礎固めに尽力し日清戦争前には海軍軍令部長に。栴檀は双葉より芳しいの伝で、上海滞在中、航海術について熱心に学ぼうとしている。

 

高杉は「上海掩留日録」に、宿舎に留まって中牟田と共に「航海有益之事」を論じた旨を記し、「運用術、航海術、蒸氣術、砲術、造船術」などの航海学全般の「科課程」を学びたいとの中牟田の念願を書き留めている。この時、中牟田は病床に在り、高杉は看病の傍ら筆録したことだろう。

 

尊皇か佐幕か、攘夷か開国か。現在のように即時的でないことは当たり前だが、風雲急を告げる故国の情勢は遠く上海の地のも逐一伝わる。浮足立つ中牟田、高杉ら。一方の幕吏にしても当初の目論見は大外れ。日本から運んだ千歳丸積載の貨物は思うようには捌けない。長逗留すればするほどに損失は募る。そうなったら、責任が発生してしまう。だが責任は負いたくない。逡巡の末、上海出港を決定した。

 

かくて再び荷物を積み入れ、外交儀礼に従って道台への挨拶も終えて乗船した。乗船以来黄疸を患い、中牟田は船中病臥したままで、風雲急を告げる日本に戻っている。《QED》