【知道中国 1193回】                       一五・一・念九

――「支那之衰微、押て可知候也」(中牟田6)

「上海行日記」(中村孝也『中牟田倉之助傳』大正八年 中牟田武信)

凡そ交渉事は、相手を相手以上に知り尽くしたうえで臨むべきものだろう。にもかかわらず、幕吏には事前の周到な準備がなかったようだ。そこで勢い、ぶっつけ本番。かくして無手勝流に奔る。「受太刀もしどろもどろとな」り、結果として口を滑らせ「餘りに正直なる應答」をしてしまい、相手の術策に嵌りこみ、言質を与えてしまうのが関の山。こちらの狙いは相手に見透かされてしまう、という悲惨な結果・・・トホホ、である。

 

以上を中牟田の評語で綴れば、道台の「辭令巧妙」に対するに、「先を越されて幕吏聊か狼狽の氣味あり」。「探らるゝ質問」に、如何せん「受太刀」。「質問益々鋭利」になるばかりで、「受太刀もしどろもどろ」。「追窮少しも緩まず」、答に窮して「赧顔の至り」。「知らんとする要領は皆知りたり」と相手の余裕十分な態勢に引きずり込まれ、思わず「餘りに正直なる應答」に逼られる。そこで背中を冷たい汗が流れる始末。かくて「流石に氣の毒にもあり」と「温顔にて慰め」られれば、冷や汗を拭き拭き「吻とす」・・・これでは外交交渉を有利に進められるわけもなく、外交上の果実を相手に献上したも同然だ。

 

だが、これだけでは終わらない。次なる舞台が設えてあった。別室での宴席である。

 

極度の緊張から解き放たれたからだろう。ついつい口が軽くなる。宴席で幕吏は1842年の南京条約で対外開放された上海・寧波・福州・厦門・広州の5港のみならず、天津・漢口への日本船の入港は可能かと尋ねた。道台は「差支えなし」と応じているが、その種の質問は正式交渉の席で問い質すべき事項だろう。酒席での話はその場限りで、公式発言とは見做されない。おそらく道台は幕吏の外交音痴に呆れたはず。

 

だが、その続きがあった。道台が去った後、なにを思ったのか幕吏は突然オランダ公使に向かって、「道臺は才子と相見え申候(いや~、道台はデキ申す)」と。加えて、あろうことか「遊女等に出産せる小兒は、本國に伴ひ歸りて宜しきや」などといった愚にもつかない、いや相手からバカにされるに決まっている質問まで。主張すべき場で主張すべきを口にせず、いうべからざる席でいわずもがなを話題にする。オランダ公使を“身内”と思い込んでの軽口だろうが、味方は敵に、敵が味方に豹変することを肝に銘ずるべきだ。軽率が過ぎる。交渉担当者としては最悪・最低の振る舞い。バカにつける薬はない。失格!

 

中牟田のみならず高杉もまた、千歳丸の幕吏は役不足の小役人であると綴っているところからしても、交渉不首尾の原因は幕吏の能力不足に求められそうだが、やはり長かった鎖国もまた大きな要因として考えるべきだろう。

 

それしても、である。すでに幕末の時代から外交交渉下手だったとは。「勝ちに偶然の勝ちあり。負けに偶然の負けなし」とはプロ野球の野村元監督が口にする“格言”だが、確かに負けるべくして負けたというのが、道台対幕吏の談判だったように思える。あるいは文久2(1862)年の上海での外交交渉の席における幕吏の振る舞いがトラウマとなって、現在まで続く日本の対中交渉を縛ってきたのではなかったか。そう“牽強付会”でもしないかぎり、日中国交正常化交渉以後の一連の対中外交の弱腰ぶりは説明できそうにない。

 

中牟田は英語が達者であったからか、イギリス、アメリカ、オランダ、ベルギー、ポルトガルなど上海在住の欧米人と精力的に接触を重ねている。なかでもジャーデン・マセソン商会と同じく鴉片貿易で財をなしたデント商会を2回訪ねているのが興味深い。両商会は開港場となった横浜に最初に支店を置き、阿漕な商法で日本の業者を翻弄したことで知られる。それもそのはず。彼らは海賊の子孫、いや海賊のDNAを持つ商人なのだから。

 

デント商会を訪ねたのは、同社で働いていると長崎で聞いた尾張の漂流民の「乙(ヲト)」と面談したかったからだ。「乙」とは、拙稿1147回で話題にした登場した音吉である。《QED》