【知道中国 1191回】                       一五・一・念五

――「支那之衰微、押て可知候也」(中牟田4)

「上海行日記」(中村孝也『中牟田倉之助傳』大正八年 中牟田武信)

上海のブザマな姿を、中牟田は綴る。

 

「一、孔夫子之廟、當時別所に變じ、英人の陣所と相成居申候由、誠に可憐也。

 

一、賊亂を遁れ來り小舟之内、又は土地に蓙を張、雨之防を致し、其内に住居致し居候者多數、地行人數之半も可有之歟。其故平生乃上、猶又キタナク有之候由、右之者共之様子を見候に、誠に可憐也。

 

一、所々に英佛兵野陣を張居候事。

 

附り、帆木綿にて拵たるものを地上に張り、雨防致し居候事情。」

 

――中国文化にとって至誠・至高であるはずの孔子像すらもが取り外され、別の場所に移動された挙句に、聖域中の聖域であるべき孔子廟は英軍兵士の宿営と化した。太平天国を逃れた無辜の民は、到る所で悲惨極まりない難民生活を余儀なくされている。上は至誠・至高の孔子から下は無告の民まで、「誠に可憐(誠に憐れむべ)」き情況に在る。一方、英仏軍兵士は各所にテントを張って駐屯している――

 

すでに清国は清国でありながら、じつは清国ではない。自分の国でありながら、自分の国ではない隣国の姿を目の当たりにして、中牟田は清国側に立つイギリスの狙いを推測してみた。

 

「長毛賊、耶蘇を信ずる様子、外國器械を多く用いゆ。大砲なども外國砲を用ゆる様子(小さい字で「英人云亞米利加人與之、或云英人私に與るならん」と注記)/英吉利斯は、表は爲清朝、長毛賊を防ぐと申し、内には長毛賊に好器械などを渡し、私に耶蘇敎を施し、其實は、長毛賊を以て清朝を破らしめ、己清朝を奪ふ落着ならん。又毛長之方には、豫め耶蘇敎を信じ、英吉利斯などを己が身方に致し遂に清朝の天下を奪ひ度、落着なり。天下を奪候得ば、英吉利との儀は如何とも可相成と策謀なせし様思はる。」

 

――太平天国はキリスト教を信じているとのことであり、西洋の武器を多用している。大砲なども西洋製だ。(イギリス人はアメリカ人が供与しているというが、イギリス人が秘密裏に渡しているとも伝えられる)イギリスは表面的には清朝のために太平天国の攻撃を防禦するなどといってはいるが、内々に太平天国側に高性能兵器を供与するだけでなく、秘かにキリスト教を布教している。ということは、じつは太平天国によって清朝を敗北させ、清国を奪い取ろうという魂胆ではないか。天下を奪い取ってしまえば、中国は自分のものといってもいい。思うがままだ。これがイギリスの策謀というものだろう――

 

おそらく中牟田は、清国における清朝と太平天国の対立と混乱に対処する英仏両国の振る舞いから、英仏両国の日本における策動に思いを巡らしたに違いない。勤皇か佐幕か、攘夷か開国か――終わりなき死闘が繰り返され、社会の混乱と動揺が続くなら、その間隙に乗じた英仏両国が日本を属国化させないとも限らない。今日の清国が直面する悲惨な姿が、明日の日本に重なってきたはずだ。

 

かくて中牟田は俄然、太平天国研究をはじめる。6月12日にミューヘッドと称するイギリス人から太平天国について書かれた4冊の本を借り、翌日は「終日寫本」。19日から27日までも宿舎に留まって「賊の書」を写した。「上海滯在中雜録」には『太平軍目』『太平禮制』『太平條規』『建天京於金陵論』などの書名が記されているが、これらを購入したのか。ところで高杉晋作が「外情探索録 上海総論」に「中牟田所寫之書、天理要論、〇太平詔書、太平禮制、天命詔書、〇資政新篇、看鼻隨聞録」と記しているところから判断して、宿舎での同室が関心を抱くほどに、中牟田は太平天国研究に打ち込んだようだ。

 

崩れゆく清朝の背後に英仏の侵略の牙・・・中牟田の心は奮える。日本危うし。《QED》