【知道中国 1190回】                       一五・一・念三

――「支那之衰微、押て可知候也」(中牟田3)

「上海行日記」(中村孝也『中牟田倉之助傳』大正八年 中牟田武信)

9日、一行は千歳丸からオランダ領事館に隣接する宏記洋行に移る。ここが上海滞在中の宿舎。中牟田は木村傳之助、名倉予何人、高杉晋作と同室だった。木村と名倉は御徒目附・鍋田三郎衛門、中牟田は御小人目附・鹽澤彦次郎、高杉は同じ御小人目附・犬塚鑅三郎、各々の從者であり、鍋田・鹽澤・犬塚の3人が同室だったことから、從者もまた同室ということになったのだろう。そういえば名倉の「海外日録」「支那見聞録」には、中牟田の「上海行日記」や高杉の「遊清五録」と重なる記述が散見される。ということは、同室の3人は行動を共にする機会が多かったと考えられる。記録は残されていないものの、木村もまた同じではなかったか。次の一件も中牟田1人の体験ではなく、高杉も名倉も同行していたようでもある。

 

上海滞在も1ヶ月ほどが過ぎた6月9日、上海市街から宿舎に戻る際、上海の城門閉鎖の門限に遅れてしまった。開門を要求するが、城門を守備するフランス兵は規則を盾に聞き入れようとしない。すったもんだの挙句、兵卒頭がやってきて日本人はフランス領事の客分だから開門せよと命じ、やっと開門させた。門の内外には多くの中国人が待っていたが、彼らの要求は無視された。いわば日本人は‟準西洋人”としての扱いを受けたわけだが、この体験を中牟田は、「西洋人え相頼、門番爲致候處より、自國之城門を自國之人出入不叶様相成、賊亂之末故とは乍申、餘り西洋人之勢盛ナルコト、爲唐人可憐。支那之衰微、押て可知候也」と慨嘆し、さらに「近來段々西洋人北京へ住居罷在候由、之は後には北京城も西洋人え防方相頼候哉と被考候」と続ける。

 

――上海の防備を西洋人に依頼したことから、自らの国土でありながら清国人は自由通行が許されない。太平天国に起因する混乱とはいえ、西洋人の力は強すぎる。「唐人」は惨めなものだ。ここからも「支那之衰微」を推し量ることができる。西洋人は北京に住むようになったとのことだが、いずれ近い将来、北京の城(まち)の防衛も西洋人に依頼することになろうかと考える――

 

じつは納富は「或ヒトノ話」として、同じような経験を「上海雑記 草稿」に綴り、「嗚呼清國ノ衰弱コゝニ至ル、歎ズベキコトニアラズヤ」と慨嘆を洩らす。拙稿(1173回)では「或ヒト」を名倉としておいたが、どうやら納富の言う「或ヒト」は中牟田ではなかったか。おそらく中牟田が事の一部始終を同室の名倉(ということは高杉にも)に伝え、名倉が納富に話した。かくて彼ら「從者」の間で話題になったということだろう。

 

いずれにせよ国力の衰え、西洋人の横暴、自国の中ですら自由に往来することができなくなってしまった清国人。一歩油断したら、日本にも同じ災難が降りかかることを自覚したはずだ。

 

ここで、参考までに同室・高杉は「上海掩日録」の「(五月)廿一日」の条を見ておくことにする。

 

この日は終日暇だったらしく、「上海之形勢」をじっくりと観察する機会を得た高杉は、「支那人盡爲外國人之便役英法之人歩行街市、清人皆避傍譲道、實上海之地雖屬支那、謂英佛屬地也、又可也、〔中略〕雖我邦人、可不須心也、非支那之事也」と記している。

 

――「支那人」は悉く外国人の使い走りとなり、イギリス人やフランス人が街を歩くと、「清人」は誰もが道を譲る。上海の地は支那に属しているはずなのに、実際はイギリスとフランスの属地といってもいいほどだ。日本人としても心せずにはいられない。なぜなら、これは「支那」のことではないのだから――

 

上海のブザマな姿から、明日の日本に思い馳せたに違いない。危機だ。国難だ。《QED》