【知道中国 1189回】                       一五・一・念一

――「支那之衰微、押て可知候也」(中牟田2)

「上海行日記」(中村孝也『中牟田倉之助傳』中牟田武信 大正八年)

なにせ物見高さにかけては誰にも負けない中国人である。一行を取り囲んで、「あれ、克原額アルヨ」、「違うあるのことヨ。あっち、広真子のことアルネ」などと喧々諤々・甲論乙駁・議論百出・噴飯至極・抱腹絶倒で暇つぶしを愉しんだはずだ。林語堂が『中国=文化と思想』(講談社学術文庫)で語るように、中国人は有り余る暇を潰す名人なのだから。

 

上海投錨翌日の5月7日、一行の動向は早くも上海の新聞紙面を飾ったとか。「英夷、日本製空飛ぶ殺人マシーン投入/太平天国軍皆殺し」と「東京スポーツ」のノリだったのか。はたまた「英夷、日本で3万の無辜の民を強制連行/太平天国軍掃討戦に」などと「朝日新聞」風の似非ヒューマンタッチで報じたのか。

 

翌8日、幕吏は従者を引き連れ、オランダとフランスの領事館職員に先導され「上海を預かる奉行」である道台の呉照(峯、名倉、納富、日比野は共に呉煦と記す)を訪問し、上海入港の目的を述べた。もちろん従者であるからには、中牟田も高杉も日比野も名倉も峯も同道している。

 

先ず幕吏は、①商人を帯同したのは、上海での貿易の可能性を探るため。②上海滞在中の便宜供与を願いたい。③千歳丸には石炭、人参、煎海鼠、乾鮑、干藻、昆布、塗物などを積んできたが、上海の貿易担当者に善処を願いたい――と申し出た。

 

これに対し道台は、①要求はオランダ領事より聞いている。②上海の商人が貨幣鋳造用に銅を輸入するなど日本との間に長い通商関係はあるが、日本からの来航は初めてだ。③ゆえに、日清両国の間で通商条約が締結されるまでの間、オランダとの通商規約に準拠し、一切はオランダ領事に任せ、日本からの通商物資をオランダのものとして扱う――と返答している。

 

幕吏と道台との遣り取りを中牟田は、次のように綴った。

 

「彼問ふ。御出張の方々の官名を伺ひたし。我答ふ。政府の錢糧金銀の出入を扱ふ官なり。彼言ふ。然らば中國にていふ布政司・便司參議といふ官に同じ。我問ふ。滯在中、從者に至るまで市中其外散策、見物差支なきや。彼答ふ。其儀苦しからず。但、方今、長髪賊、處在に出没して人を殺し、家を焼き、狼藉甚し。仍て英佛二國の軍隊に依頼し、防禦の配備をなす有様なり。遠路の徘徊は御無用になさるゝ方然るべし云々」

 

一方は新しい国を掲げながら「處在に出没して人を殺し、家を焼き、狼藉甚し」い。一方は甚だしい「狼藉」を鎮圧することができずに「英佛二國の軍隊に依頼し、防禦の配備をなす有様」――長かった太平の世も終幕に近い。武力によって新国家建設を図ろうとする太平天国軍の攻勢は続く。これに対し、清国政府は外国軍隊を迎え入れることで混乱を収拾し、太平天国軍の制圧を目指そうと考えた。

このような清国の姿は、勤皇か佐幕か。攘夷か開国かに揺れ動く当時の日本と重なって見えたことだろう。上海滞在は中牟田らにとってまたとない学習の好機を与えた。であればこそ道台からの「遠路の徘徊は御無用」などという忠言は、「御無用」だったに違いない。

 

ここで「英佛二國の軍隊に依頼」するに至った経緯を、簡単に振り返っておきたい。

 

洪秀全が太平天国を名乗り反清の兵を挙げたのは1851年。曽国藩・李鴻章ら将軍麾下の清国軍を蹴散らし、53年には南京に入城し長江以南を制圧した。英仏両国は56年にアロー号事件(第2次アヘン戦争)を口実に戦端を開き、広州を攻略した後、一気に北上して天津を陥し、千歳丸上海行きの2年前の60年にはロシアも加えて北京条約を結ばせ、中国全土におけるフリーハンドに近い行動を確保した。かくて清国政府は英仏両国の力で太平天国打破を狙ったわけだが、逆に両国の専横を許し、亡国への道を走りはじめる。《QED》