【知道中国 1188回】                       一五・一・仲九

――「支那之衰微、押て可知候也」(中牟田1)

「上海行日記」(中村孝也『中牟田倉之助傳』大正八年 中牟田武信)

中牟田倉之助(天保8=1837年~大正5=1916年)。海軍中将。子爵。海軍大学校長、軍令部長、枢密顧問官などを歴任。佐賀藩主・鍋島直正の推挙によって20歳の安政3(1856)年に長崎海軍伝習所へ。後、佐賀藩海軍方助役として海軍力発展に努める。中牟田の上海行きは佐賀藩海軍方助役当時だったのか。上海滞在時の中牟田は、なんと25歳!

 

慶応4(1868)年に戊辰戦争が勃発するや奥州戦線へ。北越戦争、函館戦争にも参戦。明治2(1869)年秋、慶應義塾入学。後に海軍に奉職し、草創期の海軍兵学校教育の基礎固めに尽力。日清戦争前、海軍軍令部長。清国の北洋艦隊の戦力を高評価し、開戦に異を唱え、山本権兵衛ら開戦派によって軍令部長を解任された。彼の“敗北”によって、草創期海軍の2大派閥の一方の柱であった佐賀藩勢力は後退を余儀なくされ、以後の海軍主力は薩摩藩出身者が占めることになる。

 

千歳丸上海行き前後の長崎で大流行していた麻疹に、中牟田も高杉も罹ってしまった。発熱は止まず、乗船は危ぶまれたが、鎖国の時代に外国を見聞できるという“千載一遇”の好機を逃すわけもなく、2人は無理を押して乗船した。中牟田の資格は「御小人目附 鹽澤彦次郎」の「從者」であった。

 

中牟田は長崎抜錨前に幕府側から示された全14項目に及ぶ「乗組員可相守規則(互いに守るべき規則)」を記しているが、火気の取り扱いについて殊に厳しい。これは千歳丸が木造船だったことにもよるだろう。その他、航海中の水の使用制限、船内及び上陸時における自由行動の禁止、異国産品の購入制限などに加え、①「役人之許なくして、外國人え音信すべからず」と②「異宗之儀は、堅御禁制に付、相勸め候もの有之候とも、一切携申間敷く事」の2項目もみることができる。

 

上海には中国人のみならず、当然ながら欧米人も多く滞在している。その欧米人は「堅御禁制」の「異宗」の信徒であり、上海に出向いた日本人に対し布教活動に励むことも考えられる――このような事態を想定すればこそ、この2項目を加えたのだろうが、異国においても鎖国の禁を守らせようとする幕府の“苦肉の策”といったところか。

 

4月29日早暁、千歳丸は長崎を出港する。海上では台風に遭遇し、一行は激浪に苦しむが、長崎を出てから8日目に当たる5月6日の9時42分、前檣にオランダの、中檣最上部にイギリスの、後檣に日本の、それぞれの国旗を掲げた千歳丸は、在上海オランダ領事館前に投錨し、上海到着となる。

 

その時の情景を中牟田は、「上海滯在之洋船百艘も可有之歟。唐船は一萬艘も可有之歟。誠に存外之振にて候事」と記す。「洋船百艘」はともかく、「唐船」の「一萬艘」は些か大袈裟が過ぎるようだが、「誠に存外之振にて候事」という表現からは、想像を遥かに超えた上海港の賑わいに度肝を抜かれ様子が伺える。当時の日本が備えた唯一の“国際港”たる長崎も、天下の台所を誇る大阪も、ましてや将軍の御膝元である江戸も、やはり物の数ではなかったようだ。

 

「直に供致し揚陸、和蘭コンスル(チ・クルース)處へ參る」。つまり幕吏は従者を従え直ちに上陸し、上海滞在中に世話になるオランダ領事館を表敬訪問する。

 

帰路、一行が「所々徘徊致し候處數多之唐人集り跡より附副來り、暫時にても立止候へば、唐人取巻見物す」となる。そこで中牟田は、丁髷に裃、腰の日本刀という一行の「模様餘程珍ら敷覺候事」だから取り囲まれたと考えたようだが、勘違いだろう。おそらく日比野が綴っていた“雲を駆る殺人マシーンの克原額”と“1日に千里を走破できる広真子”の2人を探していたからこそ、「取巻見物」される羽目になった・・・はずだ。《QED》