【知道中国 1184回】                       十五・一・仲一

――「我國萬世一統。所以冠萬國也」(日比野11)

「贅肬録」「没鼻筆語」(東方学術協会『文久二年上海日記』全国書房 昭和21年)

 

以下は、ささやかな経験。

 

いまから半世紀ほどの昔、初めての海外旅行が台湾だった。台北の西に位置し、台湾海峡に臨む古い港町の淡水にあった淡江文理学院に1か月半ほど短期語学研修した時のことである。当時の中国は文化大革命の、台湾は?介石政権の独裁の真っ盛り。互いが互いを悪逆非道の政権と非難し、人間以下の生活を強いられている人民を救い出さねばならないと絶叫していた頃だ。台湾解放が大陸側の、打倒共匪・大陸反攻が台湾側のスローガンだった。今から思えば、いや当時ですら、目クソ鼻クソを笑う類のバカ話ではあるが。

 

日曜日は教室での勉強は休み。そこで電車で台北に出掛ける。そんなある日曜日、台北の道端での扇子売りの爺さんとの立ち話である。「その扇子は1本、いくらですか」。「1本3元」。安い。それに扇面に描かれた絵が面白いから、土産には適当だ。そこで「3本下さい」というと、すかさず爺さんは「3本なら10元だ」。おいおい、1本3元なら3本で7元か8元に値引きすべきだろうに。そこで「為何(どうして)?」。すると「3本を纏めて買える客は金を持っている。だから10元でも買ってくれる。お前、金持ちだろう」との反応が返ってきた。

 

なるほど、そう言われればそうだ。金のある客からカネをふんだくる。些かも商人道に悖るものではない。これが中国式商売というものかと納得した次第だ。変幻自在で融通無碍、即時納得で事後疑問。台北の扇子売り爺さんの御先祖サマが、日比野に桃を投げつけられた上海の桃売りではなかったか。ひょっとして・・・まさか。

 

閑話休題。

 

長崎に向けて上海出港直前、日比野は上海を管轄する道台の役所に別れの挨拶に向かう一行に加わった。道台から茶菓の持成しを受けながら「左右ヲ熟視スルニ(庭の設えは誠に立派だが)、脚服ヲ竿ニ穿チ或ハ襪ヲ岩上ニカク。實ニ不敬ト云フベシ」。小汚い洗濯物を役所の庭に正々堂々と干すなど見苦しい限りだが、それを道台は黙認したまま。まさに綱紀弛緩の極みである。こんな点からも、日比野は清国の黄昏を実感したに違いない。

 

宿舎に戻る道すがらも「縱觀スル者堵ノゴトシ」と、相変わらずの人だかりだ。

 

やがて上海で知り合った友人知己が別離の挨拶にやってくる。

 

ある者は「別ヲ告ゲテ云フ、萬里ノ別離、實ニ両袖ヲウルホス。來春必ズ崎陽ニ遊ビ再會スベシト云フ」。日比野に「勇義」を説いた将軍の華翼綸も「來リ別ヲ告」げた。やがて日比野の乗船時間が迫る。

 

「皆余ノ乘船スルヲ待ツテ(宿舎の)門前マデ送リ、別ヲ惜シンデ愁傷ス。ソノ厚情實ニ竹馬ノ友ニマサル。時既ニ當午、杉板ニ乘ツテ千歳丸ニ移ル。蓋シ清國ニアソブ纔ニ三月ニシテ、再遊スル難ケレバ遺憾スクナカラズ。岸畔ヲ看レバ波風拂々涼味溢ルゝモ、船室ニ至レバ炎熱ツヨク夜眠ルヲエズ」

 

「杉板」とは中国固有の小型船のサンパンのこと。一行は岸壁でサンパンに乗り、沖合に停泊中の千歳丸に乗船する。わずか3ヶ月ばかりの上海滞在だったが、2度と来ることはないだろう。「遺憾スクナカラズ」。上海での日々を思い浮かべながら岸壁の方向を見詰める日比野の目は、あるいは涙に濡れていたのだろうか。

 

長崎帰着。上海の濁り切ったそれではなく、清浄極まりない故国の水に、しみじみと感謝するも、「眼孔穴ヲナシ頤トガリ面色土ノ」ような自分の顔を鏡に写し、「愕然タリ」。

 

この時から6年後、日本は明治に改元され立憲君主制の近代国家への道を歩み出す。一方の清国は崩壊への坂を転げ落ちはじめた。両国の運命を隔てたものは・・・何だ。《QED》