【知道中国 1022】 一四・一・仲三
――「中国政府はなぜこれほど金持なのだろう?」(本多の8)
「重慶の印象」(本多秋五 『世界紀行文学全集』修道社 昭和46年)
これまでもしばしば取り上げたが、当時、北京に在って訪中する日本人を応対した訪中日本人洗脳要員の亀田東伍が著した『中国の建設 ――第一次五ヶ年計画時代』(岩波新書 昭和31年)に、公私合営を進めた当時の北京の情景が描かれている。本多とも離れるうえに、やや長い引用になるが、当時の日本で中国における社会主義化政策がどう伝えられたかを知るためにはまたとない資料と思うので、ここで敢えて紹介しておきたい。
「私は一九五六年元旦以来、毎日朝から夜おそくまで耳にし、目にするこの数々の熱狂的喜報隊、賀喜隊の隊列に、おどろきいっていた」。もちろん「私」とは亀田であり、喜報隊、賀喜隊とは「資本主義商工業が公私合営に」なった「喜びを、互いに祝いあい、市民につたえ、党や人民政府にほうこくにいくデモンストレーションである」。かくて、公私合営の喜び沸き返る街の姿が描きだされる。
「その頃、北京の街を歩くと、商店に赤地の布が張り巡らされていた。『慶祝公私合営』と金文字で書かれてあった。また『喜』という字を二つ横につなげた文字が、大きく赤幕やショーウィンドーにかかれていたりしていた。五六年一月はじめ、いっせいにこういう赤幕の店がふえた。ほとんど軒なみとさえ見えた」
公私合営による社会主義化路線を大歓迎して沸騰する北京の街の姿が、目の前に浮かんでくるようだ。ここまで読まされれば、余ほどのへそ曲がりでない限り、北京は街を挙げて喜び勇んで公私合営に突き進んでいると思うはずだ。亀田の筆は興奮気味に続く。
「お祝いのデモは一五日間毎日のようにうちつづき、爆竹がなり、腰鼓隊、ブラスバンド、秧歌隊のドラや太鼓がなり、色さまざまな旗が風になびいて、北京にきてから、というより、生まれて初めてのにぎやかな正月であった。労働者・店員・学生のデモばかりではない。資本家・手工業者やその家族のデモもあった。北京市郊外の農民も同じ時一せいに高級の農業合作社、つまり社会主義の段階にはいり、農民のデモもあった。デモの参加者は、心のそこから勇み立って新しい生活をきりひらいているようにも見えた。一月一五日、彭真市長が天安門前の二〇万人の大会衆に向かって、北京が全国でまっさきに社会主義の都会になったと宣言した。まち中が感動と興奮につつまれていた」
さらに亀田は、「北京につづいて天津、西安、瀋陽、重慶、武漢、広州、南京、成都、保定、鞍山も全部が公私合営となり、社会主義社会につきすすんだ。特筆大書すべきは、中国第一の商業都市上海で、一月二〇日、全部の資本主義商工業が公私合営を実現し、勝利的に社会主義の社会に進んだことである」と。
――おそらく、亀田のこの本が出版された当時、いいかえるなら本多のように洗脳されたまま中国から帰って来た知識人・文化人の類がデタラメ中国報告を全国で撒き散らしていた頃、政府の政策だからというものの、商売人が粒粒辛苦して築き上げた資産を黙って差し出すわけがないはずだ。「デモの参加者は、心のそこから勇み立って新しい生活をきりひらいているようにも見えた」のではなく、泣く泣く見せているだけだ。土地改革で地主がどのような過酷で悲惨な目に遭ったかを知ればこそ、命が惜しい商工業者たちは面従腹背をしているだけだ。亀田のいっていることは、嘘っぱちだなどと真っ正直に口にしたら、天下の岩波新書の記述にウソ偽りなんぞあるわけがないと袋叩きに遭ったに違いない。
だが常識で考えれば、亀田の説くところは明かに荒唐無稽なホラ話である。自分の資産の大半を問答無用で取りあげられながら、「喜びを、互いに祝いあい、市民につたえ、党や人民政府にほうこくにいくデモンストレーション」に喜び勇んで参加する「資本家・手工業者やその家族」なんぞ、この世界にいるわけがない。まして中国人であればこそ。《QED》