【知道中国 1183回】                       十五・一・初九

――「我國萬世一統。所以冠萬國也」(日比野10)

「贅肬録」「没鼻筆語」(東方学術協会『文久二年上海日記』全国書房 昭和21年)

 

「モシ一年モ滯留セバ」との願いが叶い日比野の上海滞在が長期に及び、あるいは多くの友人知己を得て、アジア蚕食の牙を磨ぐ「洋夷」に対抗すべく共同防衛戦線の構築に取り組んでいたとしたら、その後のアジアで欧米列強が野放図に振舞うことは、歴史に見られたほどには簡単ではなかったに違いない。だが日本は維新に向い、清国は崩壊への道を辿った。であればこそ、その後の日中の関係を考えるうえでも、文久2年の千歳丸一行による一瞬の上海体験が幕末日本にもたらした意味は、決して小さくはなかったと思う。

 

日比野らの上海滞在も終わりに近づいた6月も末になると、太平天国軍の敗色は濃厚になる。壊走しつつ略奪を繰り返す姿を「ソノ暴ニクムベシ」とする。一方、清国軍は追撃態勢に移り、英仏両軍が加担するわけだが、「肩ニカケシ物ハ革ニテ、ソノ中ニ玉藥ヲイレ夜ハ棚中ニテ枕ニ用ユ。皆腰ニ一刀ヲオブ」英国軍兵士の姿から、「嗟、獸ヲ以テ獸ヲ驅ル。噫」と、太平天国軍と英仏軍双方を「獸」に譬える。清国の屋台骨を揺るがせ、奪い尽くそうという点からは、太平天国軍も英仏軍も同じ穴のムジナということになるはず。

 

当時、日比野も悩まされたコレラだが、その流行は猖獗を極めた。そこで問題になるのが、やはり夥しい数の死体処理である。日比野は、どこからか聞きつけて来て、「頃日瘟疫流行、死スル者カズナシ。屍ハ靜安寺ノ大路ニトゞム。盛暑ノ時ユエ醜氣甚ダシク傳染シヤスシ。故ニ屍ヲ積ミ火ヲ以テ焚化ス。蓋シ焚化ハ清國ノ風俗ニアラズ。死人多キ故ニ、ヤムヲエズ便ニ從ツテオコナフ。故ニ官吏ヨリキビシク禁ジ、焚化ノ聖敎ニソムクコトヲ示導セシヨシ。我國モ愚民ノトモガラ佛氏ニアザムカレ焚化ヲ行フ。實ニ悲歎スベキナリ」と綴る。

 

当時、靜安寺は上海の西郊に位置していた。いわばコレラ犠牲者の夥しい数の死体を処理するためには郊外に運んで野積みにし、「焚化ス」る以外に他に便法はなかったはず。たとえ「聖敎ニソムクコト」があったにせよ、緊急事態であり、且つ環境衛生を考えれば「焚化」は早急に取り組むべき作業だろう。にもかかわらず「我國モ愚民ノトモガラ佛氏ニアザムカレ」などと綴っている点から判断して、日比野にとっては孔子以来の「聖敎」を尊びこそすれ、「佛氏」、つまり仏教は否定されてしかるべきものだったのだろう。

 

帰国近くなっても、いや近くなったからだろうか。熱心に「市街を徘徊」する。ある時、「人アリ余ノ袖ヲヒク」。何奴かと思えば、「あなた国のヒト、上海、街知らないアルネ~ッ。私、案内スルあるよ」。日比野は、その男に案内されるがままに「市街を徘徊」してみた。すると艶めかしい建物に。中を覗いてみた。「帷中ヲ窺フニ一美人鏡ニ對シテ粧フ」。そこで日比野は「コレ青樓ニアラズヤ」。すると「導者笑ツテ云フ、然リ」。どうやら親切ごかしの牛太郎だったようにも思える。そこで日比野はUターンだ。

 

牛太郎に導かれての上海探索が続く。咽喉の渇きを覚えたので、桃を買ってくるように頼むと、「七ツニテ銅錢五十ナリ」。日比野が支払おうとすると、「姦商導者ノ求ムルニアラザルヲシリ、價ヲ變ジテ銅錢百ト云フ」。そこで日比野は「ソノ狡猾貪婪ナルヲニクミ桃ヲ投ジテ去ル」ことになるが、怒って桃を投げつけても仕方がない。おそらく桃を投げつけられた商人は、「あのヒト、オカシイあるのことね~」とでも口にした・・・だろうな。

 

「蓋シ港邊ハ何國ニテモ貪婪ナルモ、洋夷ノ俗ニ化セラレシ故ニ、コノ甚ダシキニ至ナルベシ」と綴るが、客筋を見て客に判るように値段を変える阿漕な商売をする「姦商」は、「港邊」だからでも、「洋夷ノ俗ニ化セラレシ故」だから存在するわけではない。

 

金持からカネをふんだくろうという商法を「狡猾貪婪」と憤る日比野は、やはり日本人。海を渡った異国でも一物一価が通用するという考えは、やはり捨て去るべきだ。《QED》