【知道中国 1182回】                       十五・一・初七

――「我國萬世一統。所以冠萬國也」(日比野9)

「贅肬録」「没鼻筆語」(東方学術協会『文久二年上海日記』全国書房 昭和21年)

 

日比野の体調は芳しくなく、時に清国軍の操練を見る機会を失した。そこで7万の軍隊を率いる華翼綸に戦法を尋ねると、確固たる命令系統の下で臨機応変に対応するのみ。徒に既往の戦法の原理原則に縛られる必要はない。清国軍は西欧の兵器を使わず、重い旧式銃に槍・刀を使う、との答だった。そこで「ソノ意ヲ聞ク」と、華翼綸は次のように説く。

 

――「洋夷」の火器や軍艦は極めて便利ではあるが、我が清国においては何よりも「勇義」を尊ぶ。戦場で兵士が頼りとするのは兵器ではなく、じつに「勇義」。「勇義」を貫いて戦うのみだ。「洋夷」の兵器なんぞを使ったら、おのずから西洋の「俗」に化し、「勇戰」することを棄てて兵器に頼ってしまう。だから「洋夷」の兵器は「故ニモチヰズ」――

 

華翼綸の話を聞いて、日比野は次のように考える。

 

「コノ言實ニ確乎ヌクベカラザルナリ。我日本國ノゴトキ勇義宇内ニ冠タリ。豈辮髪輩ノ比較スルトコロナカランヤ。ソノ勇義ヲ以テ生氣ノアツマル槍刀ヲフルヘバ、宇内ソノ下ニナビク、言ヲマタザルナリ。然ルニ漢學ヲマナンデウブノ漢人トナリ、西土ヲ戀フテ我タフトキ國ヲイヤシミ、洋夷ノ器械ニ惑溺シ蠏字言語ヲマナビ、甚ダシキハソノ服ヲ用ヰ正朔ヲ奉ズルニ至ル。實ニ皇國ハ如何ナル國、勇義ハ如何ナル物ヲシラザルナリ」

 

――まことに至言というべきだ。「勇義」をいうなら、我が国は天下第一であり、辮髪輩(ちゅうごくじん)なんぞの遠く及ぶところではない。この「勇義」を五体に漲らせ、「生氣」が形となって現れた刀や槍を持って戦うなら、天下が我らに靡いてくることは疑いない。しかるに漢学を学んだ者は漢人もどきに成り果て、「西土(ちゅうごく)」を恋い慕う余りに尊ぶべき自らの祖国を賤しみ軽んじ、「洋夷」の兵器に迷って自らを忘れ、「蠏字言語(アルファベット)」を学ぶ。甚だしきに至っては異国の服装を身に着け、「正朔(こよみ)」までも有難がる始末。「皇國(にほん)」が如何なる国なのか、「勇義」の何たるかを知らない。不届き至極なことである――

 

それにしても、である。文久2(1862)年の上海における日比野の「漢學ヲマナンデウブノ漢人トナリ、西土ヲ戀フテ我タフトキ國ヲイヤシミ、洋夷ノ器械ニ惑溺シ蠏字言語ヲマナビ、甚ダシキハソノ服ヲ用ヰ正朔ヲ奉ズルニ至ル」との警句は、以後も警句のままに一向に改められることなく、現在に至っているように思えてならない。

 

「我タフトキ國ヲイヤシ」むような「ウブノ漢人」や「ウブノ」西洋人を有り難がる愚を繰り返してはならない。「蠏字言語」の習得を否定しない。寧ろ大いに奨励したい。だが、先ず「蠏字言語ヲマナ」ぶ目的を学ぶべきだ。国語の時間を削り、小学生から生半可な「蠏字言語ヲマナ」ばせ、「我タフトキ國ヲイヤシ」と思わせる教育を施し、「蠏字言語」に「惑溺」された若者の粗製乱造を画策するなんぞは、愚行中の愚行としかいいようはない。

 

日比野は多くの中国人と知合い筆談によって肝胆相照らす仲間を作っていったようだが、「蓋シ交接スルトコロノ學生武弁畫工醫生皆上海ノ者ニアラズ。〔中略〕我國人ノ滬上ニアルヲ傳聞シ、遥カニ戀ヒ來タルナリ。故ニ上陸ノ初メハ格外ノ人物ナキモ、今ハ益友ニ富ム」とし、かくて「モシ一年モ滯留セバ、マタ寸志ヲ達スルノ一端モアルベキニ」と呟くものの、「歸帆近日ニセマル。却ツテ歎ズベキカ」

 

太平天国によって引き起こされたが社会の大混乱の中、多くの有為の若者が遠路をものともせず、「我國人ノ滬上ニアルヲ傳聞シ、遥カニ戀ヒ」て上海にやって来て日本人を訪ねる。「交接」を重ねた「益友」の顔を思い浮かべ、せめて一年の上海滞在が許されれば、もっと多くの「益友」との「交接」から亡国の淵に喘ぐ清国の実態を学び、日本の新しい針路を指し示すことができるのに――こんな日比野の悔しさが伝わってくるようだ。《QED》