【知道中国 1181回】                       十五・一・初五

――「我國萬世一統。所以冠萬國也」(日比野8)

「贅肬録」「没鼻筆語」(東方学術協会『文久二年上海日記』全国書房 昭和21年)

 

「實ニ惡ムベク又オソルベシ。嗟々」と慨嘆したところで、「速カニ我國事ヲ知ツテ流言」されてしまい国論分裂に至れば、劣勢挽回は至難だ。負けたら一巻の終わり・・・。他国の「國事ヲ」「速カニ」知るためには如何にすべきか。「夫レ洋夷ノ鬼子ラ何ヲ以テ伏見ノ變ヲ知ルヤ」、つまり彼らが「我國事ヲ知」るに至った経緯・仕組を探るだけでなく、徹底して「蠏字」を学ぶこと。教養としての語学でも、グローバル人材教育のための語学でもない。必要なのは、じつに彼らの「國事」を知り尽すための高度で精緻な言葉の習得だ。

 

日比野を訪ねて種々雑多な中国人がやって来る。

 

先ずは曰く因縁のありそうな書画の売り込み。太平天国軍を避けて上海に逃げて来た地方の名望家や文人が所持していたもので、「亂ヲサケ來ルニ輕便ナルヲ以テ唯コノ書画ヲ帶ス。今ヤ糊口ノ策ナシ。故ニ賣却シテ命ヲツナガントスルヨシ。實ニ泯傷スベキナリ」。売り喰いの竹の子生活を余儀なくされた、ということだろう。

 

ある時、「古硯一面ヲ帶シ」た12、13歳の童子がやって来て、「遠ク亂ヲサケ來リ飢餓チカクニアリ、請フワレヲタスケヨト云フ」。かくて「嗟、民ノ塗炭ニクルシム者、ソレ誰ゾヤ」と義憤に駆られることになる。だが、簡単に同情してはならない。古い硯を持参したコ汚い身なりのガキが口にする「ワレヲタスケヨ」は本当なのか。日本人にニセ硯を売り込もうとする魂胆ではないのか。

 

まさか「哀れじゃ、不憫じゃ。近こう寄れ。そこに硯を置き、この銭を持ってご両親の許へ急げ」などといいながら代金を差し出す。それをコ汚い両手で恭しく押し頂き、泣き顔で「アリアト、アリアト」と地面に額をこすり付けるほどに頭を下げたまではいいが、腹の中では笑いが止まらない・・・日本大人(おとな)、甘いアルネ。バカあるのことよ。あの硯、ニセモノあるよ。大儲けあるね。日本人、買う。中国人、儲かる。ショウバイ、止められないアルヨ・・・ガキであっても安心は禁物。油断も隙もない。

 

中には「少シ文才アツテ共ニ語ルニ足ルモ、ソノ人トナリ輕躁浮薄ニテ虚飾多」い者もいて、日比野を訪問する同胞を品定めし、「彼等鬼奴ナリ、共ニ論ズルニタラズ」と遠避ける。そこで日比野は「余オモフニ眞ノ鬼奴」はこいつだ、と。確かに「鬼奴」はいる。

 

とはいうものの、時にハッとするような大人(たいじん)に出会うこともあった。

 

「大清朝勅授文林郎江西永新縣甲辰科擧人華翼綸端肅拝」と何とも長ったらしく仰々しい「刺ヲ投ズル者アリ」。そこで会ってみると、7人の従者を従えていた。7万の軍を率いて太平天国軍とは40数回戦った大将で、勇ましい佇まい。「文才アツテ筆語甚ダ愉快ナリ」。清国指導者の李鴻章と「軍事ヲ談ジ」、同時に戦傷治療のために上海に滞在しているが、幸運にも日本人の上海来訪を「聞イテ戀ヒ來ルヨシ。至ツテ謙遜ニテ軍事ヲ語ラズ。唯云フ、何モヨクスルナシ」。かくて「敬シテ親シムベキ者ナリ」となる。当時の中国人にはこんなにも謙虚な人がいたかと思うと、やや大袈裟ではあるが“奇跡”としかいいようはなさそうだ。とはいうものの、「戀ヒ來ル」との一言を真に受けてよいものだろうか。

 

華翼綸以外に心を許した友人に科挙(秀才)に合格した周士錦がいた。筆談で「洋夷ノ事或ハ長毛ノ事ヲㇳへバ」、秀才は私的に国事を語ることは許されないといい、「我國事モトハズ。清國ノ事務モ語ラズ」。そこで日比野は、「余オモフニ唐人多ク國家ノ事ヲ筆ニマカセテ妄答ス。然ルニ周士錦ハ濂渓先生二十八世ノ末孫ニテ、秀才ノ科ニ登リシ者故ニ、ソノ人品文才交中ノ魁タルヲ覚ユ」と、手放しの褒めようだ。

 

それにしても「唐人多ク國家ノ事ヲ筆ニマカセテ妄答ス」とは言い得て妙。21世紀初頭の現在にも当てはまるだろう。彼らの「妄答」に振り回される愚だけは、繰り返すな。《QED》