【知道中国 1178回】 一四・十二・三一
――「我國萬世一統。所以冠萬國也」(日比野5)
「贅肬録」「没鼻筆語」(東方学術協会『文久二年上海日記』全国書房 昭和21年)
小袴、天公(カサ)、腰に刀。「拳ヲ揮ツテ、意氣揚々市街ヲ歩」く。すると中国人が道を開けてくれる。だが行く先々で十重二十重に取り囲み、前後左右から覗き込むように眺め、「髪ヲ指點シ絶倒ス」。さほどまでに丁髷は珍奇に思えたのだろうが、一方で太平天国に苦しむ上海を救助にやってくる日本からの援軍の先遣隊という噂の真偽を自分の目で確かめたかったのかもしれない。
ある日、干物屋、八百屋、米屋、綿屋、鶏や鴨を油で揚げて売る油物屋などが犇めき、「路甚ダ狹ク臭氣甚ダシ」く「酸鼻」を極める市街を「迂曲徘徊」した後、上海南西の郊外を歩く。「往々兵卒ニ逢フ」が「ソノ容貌健強ナラズ」。弱兵では戦は出来申さん、といったところだろう。やがて「田間ニ至ル」と、「亂ヲ避ケ假居スル者多シ」というから、乞食同然の悲惨な難民生活を目にしたはずだ。畑に見えるのは「胡瓜・茄・蜀黍・夏蘿葡・冬瓜・大豆・裙帯豆・紫蘇・藜・コウライノ類」で、「田畝ノウユルモノ我國ト異ナラズ」。
ところが、そこここに「箱アリ。長サ六七尺、ソノ數タトヘ難シ。臭氣尤モ甚ダシ。行人ニ問フニ皆棺ノヨシ。惡病流行ニテ死人多シ。故ニカクノゴトシ」。日比野も罹ったコレラは、さぞや猖獗を極めたのだろう。墓石が立っているものもあるが、「中ヨリ棺ノ露スルアリ。コレ年ヘテ頽破セシナリ。〔中略〕封土短カク土肉至ツテ薄シ」と。
千歳丸一行の上海滞在は夏。夥しい数の棺から腐敗臭が漏れていただろうから、「臭氣尤モ甚ダシ」となるはずだ。おぞましいばかりの風景に、日比野もまた閉口し困惑の色を露わにする。
夥しい数の棺が放置された一帯を先に進むと「長毛賊ヲ防禦ノ爲ニ野陣スル」「李鴻章ノ陣營」がみえた。さらに進み、一休みした寺の軒先で「小童書ヲヨム」。覗き込んでみると儒教古典の「中庸論語ナリ」。一緒にいた爺さんに筆談で問い質すと、去年7月、この一帯が太平天国軍に襲撃されたことから、一家眷属を挙げて上海東方の浦東に逃れた。現在の上海国際空港の在る地である。太平天国軍撤収の後に戻ったものの、「家財米粟皆奪ヒ去ㇽ」。その後も戦火は止むことなく、世の中は荒みきったままだ、とのこと。太平天国軍の兵士もまた、戦争に勝てば略奪し放題という中国古来の伝統に倣っていたということだろう。
ここまで聞いて日比野は、「蓋シ頽破キハマル、然カルモ子孫ニ書ヲヨマセ、且質樸ニテ田舎ノヲモムキ賞スベシ」と。上海の街に出て西洋人に媚び諂って狡猾に生きるよりも遥かに素晴らしいではないか。昼食を見せてもらったが質素そのもの。だが男女の別は厳然として守られている。かくて日比野は「實ニ感ニタへタリ」と、失意の中にも泰然として生きる姿に感嘆の声を洩らす。
再び市街に戻り、「徘徊シテ聖廟ヲタヅヌ」。やっと探し当てた孔子廟だったが、そこは銃を構えたイギリス兵に守られていた。何とか頼んで中に入れてもらったが、孔子像は撤去され見当たらず、広い廟内はイギリス兵の兵営になっていた。本来そうあるべき学童の勉学の場では、「喇叭操兵ノ聲」が聞こえるだけ。かくて「嗟、世ノ變ズル何ゾ甚ダシキヤ。李鴻章數萬ノ兵ヲヒキヰテ野外ニ賊ヲ防グ。ソレ狐ヲ驅ツテ虎ヲヤシナフカ。何ゾ失策ノ甚ダシキヤ」ということになる。
狡猾な狐(太平天国軍)を駆逐すべく李鴻章麾下の数万の兵が前線に赴き上海を出払っている間に、上海では獰猛な虎(イギリス兵)が孔子廟を占拠して侵略の牙を磨いでいた。これこそ失策の最たるものだ。
康熙、雍正、乾隆、嘉慶、咸豊の清朝歴代皇帝の筆になる扁額は残されているもが、「コノ前ニテ英人無儀無法ノアリサマ、實ニ惡ムベク實ニ嘆スベシ」と、憤慨頻りである。《QED》