【知道中国 1177回】                      一四・十二・念九

――「我國萬世一統。所以冠萬國也」(日比野4)

「贅肬録」「没鼻筆語」(東方学術協会『文久二年上海日記』全国書房 昭和21年)

 

日比野も上海での「徘徊」を愉しむ。

 

書店を覗く。「棚上ヲ看レバ佩文韻府アリ。塵埃寸餘、ソノ價ヲ問フニ二十五元。我國ノ十三兩ホド。コノ一ヲ以テ書籍多クソノ廉ナルヲ知ㇽベシ」と。『佩文韻府』とは清朝の康熙帝(1662年~1722年)が行った出版事業の一環で、中国古典を網羅して編纂された語彙集。詩を作る際の参考書だが、出典が明記されているだけに、語彙の来歴を調べるうえでは最も頼りになる工具書だ。

 

「塵埃寸餘」の4文字から、当時の上海の混乱ぶりが浮かんでくる。如何に貴重な書物であれ、知識人もまた詩作に耽るなど悠長に構えてはいられなかったことだろう。そんな物情騒然とした上海の書店の書棚で埃を被った『佩文韻府』に着目したとは、日比野の、いや当時の武士の教養のほどが判ろうというもの。治に居て乱を忘れずではなく、乱に居て知を忘れず。いや、乱であればこその知である。

 

この一件からだけでは余りにも飛躍した考えのように思えるが、あるいは明治維新という回天の大業をなさしめた原動力は、日比野のみならず、峯、名倉、納富、加えるにこれから読むこととなる中牟田、高杉らの綴る文章の行間から時に迸り、時に染み出るように現れる《知》の力ではなかったか。彼らの《知》は昨今のグローバル人材養成などという目端の利いた官僚サマ、そのツカイッパシリの国会のセンセイ、小利口で弁舌のみの評論家ドノ、立ち回りの上手な学者サマなどが口にする小賢しい知(恥)ではない。己が脳髄を絞り切り、考え尽くす《知》である。おそらく《知》に向っての格闘なかりせば、幕末の日本は清末のようにブザマで悲惨極まりない環境に陥っていたに違いない。

 

話は通じないが筆談ができるから「趣アリ」となる。その一例として、墨を求める際の遣り取りを挙げて、「『此墨價若干』ト書スレバ、『一元』ト答フ。『虛價』ト書スレバ、『眞正實價』、或ハ『實價不二』ト答フ。『墨色不好。且無香。想近製』ト書スレバ、『都是陳貨。香在内』ト答フ」と記す。例によって、その場の雰囲気を想像して翻案してみると、

 

――「この墨の値は如何ほどじゃ」「一元アルヨ」「偽りであろうぞ」「違うアルヨ、ホンとのことあるよ」「ウソのことないアルヨ」「墨の色は芳しからず、且つまた香りが致し申さん。してみると最近の作りじゃな」「ジェンジェン違うアルヨ。じぇんぶ古いのモノよ。香、外側ないよ。中ねーッ、中あるのコトよ」――

 

「徘徊」しながら筆談で得たであろう太平天国について多くの情報を、日比野は『盾鼻隨聞録』に纏めたと記す。同時代の日本人が綴った太平天国についての詳細な報告だったに違いない。

 

ある日、「胸中煩悶シ飲食ヲ絶ツニ至ル」。体が冷え腹痛が起り、やがて「泄痢甚シ」。夜に入って「手足拘攣、舌端固縮シ、脈ノ有無辨ジカタシ」。コレラである。かくて友人を呼んで、「今萬里外ニアツテ溳埃モ國家ノ用ヲナサズ、空シク病牀ニ死スハ、豈遺憾ナラズヤ」と悲壮な決意を伝える。翌日も、ソノ翌日も病状は回復しない。そのうち一人倒れ、二人倒れ、どうやら「我國人半バ泄痢ニテ面色土ノゴトシ」となった。

 

数日後、日比野は病も癒え、宿舎を訪ねて来た中国人と筆談を交わすのだが、相手が「蕃王貢使ト書」いた。天皇を「蕃王」と呼ばわりし、その朝貢使節と見下したわけだ。「時ニ林某傍ニアリ。余ト共ニ顔色ヲ變ジ、蕃王貢使トハ何ヲ以テ云フト詰問ス。彼大ニオソレアラタメ書セントス。余輩ソノ紙ヲ寸分ニ破割シ地ニ擲チ刀ヲ撫シテ叱咤」した。おそらく会津の林三郎だろうが、共に刀に手を掛けながら、「キサマ、何を申すか~ツ」と大喝したことだろう。夜郎自大・尊大無比で無知蒙昧に対しては・・・コレコレ、これです。《QED》