【知道中国 1023】     一四・一・仲五

 ――「中国政府はなぜこれほど金持なのだろう?」(本多の9)

 「重慶の印象」(本多秋五 『世界紀行文学全集』修道社 昭和46年)

 常識的に考えて、本多や亀田の説明は綺麗ごとに過ぎるし、それだけに胡散臭くマユツバものとしかいいようはない。では、公私合営の実態はどのようなものだったのか。そこで『中国生活記憶 ――建国60周年民生往事』(陳煜編著 中国軽工業出版社 北京市档案局 2009年)のページを繰ってみると、公私合営について「資本家『白天敲鑼打鼓、晩上痛哭流涕』」と題する回想に出くわした。そこには、こう記されている。

 公私合営、つまり「資本主義工商業の社会主義改造は、1954年から56年末までに全面的に進められた」わけだが、ある典型例が挙げられている。彼は代々医者の家系の生まれで、49年の建国前には揚子江下流域の古い商業都市である紹興において1,2の規模を競った漢方薬屋の大旦那だったそうだ。いわば封建社会で搾取階級にドップリだった彼も、公私合営の後は丁稚小僧に格下げされてしまった。まさに天国から地獄である。それだけではない。彼には人間改造という過酷極まりない試練が、共産党政権によって用意されていたというのだ。

 他の企業経営者と共々に、紹興市内に1校だけあった学校に放り込まれ、毎日、川の泥運びをさせられている。解放前に労働者や農民が重ねていた労働から何かを学び取り、尊い汗によって資本家の滓を綺麗さっぱりと洗い流せというわけだ。旧い中国の封建社会で労働者・農民の尊い生き血を絞って生きて来た人間のクズどもを、労働によって改造するといえば聞こえはいいが、実態は非人間的な単純労働を際限なく繰り返させることで人間としての尊厳を磨滅さてしまい、共産党政権への反抗心を完全に萎えさせ、従順にしてしまおうという狙いである。とんでもない人間改造だが、慣れない過酷な重労働と栄養不良で俄か丁稚小僧の彼は浮腫に罹ってしまった――と、ある老舗薬屋の大旦那の悲劇が挙げられている。

 かくて、「公私合営を受け入れた資本家の中には、工商業の(社会主義的な)改造は大きな時の流れだと観念する者もいた。なかには前途に茫然自失し、終日不安を抱き、心を痛める者もいた。積極的に資産を供出しようなどという者は結局は少数に過ぎなかった。ある資本家は『白天敲鑼打鼓、晩上痛哭流涕(昼はカネ太鼓を叩き歓喜し、夜は涙で泣き濡れていた)』。中には『長年の辛苦は一朝にして潰え去った。カネや太鼓の音に、我が巨万の財産との永遠の別れを告げられた』とまと嘆き悲しむ者もいた」と。

 政府との間で公私合営契約が交わされると、企業の経営権は「公」、つまり共産党政権に取り上げられてしまった。一方、それまでの事業主であった「私」には、「定息」と称する一種の配当金が宛がわれたのである。たとえば100万元の資産を供出した「私」は依然として100万元の資産の所有者ではあるが、それは名義上のこと。その代わり一種の宛がいブチとして、一般的に100万元の5%に当たる定息が与えられるだけ。当時の銀行利子より割合はよかったとはいうが、銀行は機能停止状態。56年年初から7年間は変わらず、63年になって3年間延長されたが、文革開始の66年の9月になって定息は廃止されている。

 56年の1年間で、全国の私企業のうち、工業部門では99%で、商業分門では85%で公私合営が達成されたというが、これを裏返していうなら、わずか1年間で共産党政権は全国私企業の工業部門では99%、商業部門では85%の経営管理権を掌握してしまった。しかも一銭、いや一元一角も使わずに、逆らったら殺されるという恐怖心を私企業の持ち主に与えるだけで。彼らが抱いた恐怖心は想像を絶する。

 だが亀田は、「資本家はいま、大きな希望をもって公私合営から、完全な社会主義への道を進んでいる。・・・労働者階級の仲間入りする光栄ある道を歩んでいるのである」と。ウソつきは泥棒の、は・じ・ま・り。《QED》