【知道中国 1174回】                      一四・十二・念三

――「我國萬世一統。所以冠萬國也」(日比野1)

「贅肬録」「没鼻筆語」(東方学術協会『文久二年上海日記』全国書房 昭和21年)

日比野輝寛(ひびの きかん)。藤原輝寛とも。高須藩士。号は維城、また懽成。天保九(1838)年、美濃下石津郡高須村の原田家に生まれ、後に日比野家を継ぐ。名古屋、江戸で漢学を学ぶ。尾州藩を攘夷に導くべく奔走し、維新後は名古屋明倫堂教授を経て大蔵省官吏に。退官後は世事と交渉を絶つ。彼が没した明治45(1912)年に日本では明治天皇が崩御され、時代は大正に移り、中国では清朝が崩壊し、アジアで最初の立憲共和制という触れ込みで中華民国が誕生している。

 

まさに幕末の激動を奔り抜け、明治の御代を生き抜き、日中両国共に新たな時代のとば口に立った年に没した日比野は、一生を二生にも三生にも生きたといえるだろう。

 

先ずは長崎から上海までの船中での出来事だ。

 

千歳丸での上海行きは「我國遣唐使後初メテ西土ニ渡ル」ことであり、加えて「コノ邊海賊アリト聞ク」からには、やはり想定外の事態に備えておくべきだ。そこで「中牟田、林、高杉、名倉、伊藤」を前に、日比野は「我輩腰間ノ日本刀アリ。滿心ノ勇義ヲ以テコレヲ揮フ。些々タル海賊何ゾオソレン」と決意を披歴した後、「然ルモ不虞ニ備フハ先哲ノタツトブトコロ」と問い掛け、海賊などに襲撃を受けたと想定して甲板上の大砲は誰が操作し、持参した20丁の小銃は誰が持つか。誰が弾丸・火薬を管理するのか、と続けた。

 

中牟田は中牟田倉之助、林は血気に逸る会津の林三郎、高杉はもちろん晋作、名倉は予何人、伊藤は「大阪書生」の肩書で乗り込んだ伊藤軍八――いずれも血気盛んな若き恋闕の志士。「議論紛々タリ。書生相聚リ訂論目ヲ過ス」となったことはいうまでもなかろうが、「冷氣強ク衣ヲ重ネ褥ヲ着ス」とあるから、寒さにブルブルと震え、紫に変色した唇で喧々囂々の議論を戦わせていたのかもしれない。やはり燃えるが意気も、寒さには敵わない。

 

千歳丸は待望の上海へ。「各国ノ商館相連リ、停泊ノ船ソノ多キタトヘガタシ。(中略)江ハ滿?皆船ナリ。陸ハ家屋比麟、何ゾ盛ナルヤ」と、先ずは繁華な上海に驚く。入船に関する諸般の手続きをしているうちに、「暫クシテ唐人來リ筆語ス」る。その人物が突然に「?送東洋蛋?。我吃。(あなた、東洋蛋?〔かすてら〕、くれる、よろしいアルね。わたし、食べるアルヨ)」と。そこで「辭不敬ニシテ卑劣極マル。余想フニ官吏書生ニ非ズ、商人ナルベシ。故ニ深ク罪セズ。答ヘテ曰ク、猶有餘屑。再來與之」と。

 

――こやつ、文字遣いは不敬にして態度物腰は卑屈、礼儀を弁えない。してみると官吏書生の類ではあるまいに。おそらくは商人ならんか。ならば深く問い詰めても詮なきことゆえ、「いずれ余分もあろうて、再来の折には与え申そう」と応えておき申した――

 

じつは日比野は「文事」について尋ねたかった。「文事」とは、前後の文脈から推して上海事情を指すものと思われるが、相手が「辭不敬ニシテ卑劣極マル」商人では、一向に埒が明かない。「わたし、ジェンジェン、判らないアルヨ」。かくて「笑フベキナリ」となる。幸い、暫くして乗船して来た厲徳順らから、諸事情を聞きだすことができた。

 

日比野が甲板に立っていると、「唐船頻リニ我ガ船ニ近ヨリ、我輩ノ頭ヲ指轉シ絶倒ス。余彼ヲ看ルニ、頭ニ數尺ノ尾ヲタレ、ソノ姿容實ニ抱腹ニ堪ヘズ。彼此相笑フ、ソノ愚ナルヲ擧ゲン」と。千歳丸に近寄って来て船の上から、日比野の頭を指して笑い転げている。そういうヤツラの頭を見れば、何と「數尺ノ尾ヲタレ」ている。これが笑わずにいられようぞ。彼らは日比野の丁髷を笑い、日比野は彼らの弁髪を奇とする。かくて「實ニ風俗ノシカラシムルコト、ソノ笑ヒイヅレヲヨシト定メ難シ」と見做す。文化とは《生き方》《生きる形》である。ならば丁髷と弁髪の間に優劣はつけ難いということだろう。

 

日比野は、上海第一夜を「數千ノ船皆一燈ヲ點ジソノ景佳ナリ」と綴った。《QED》